大学生の自由帳

ペンギンパニックとエノキ工場の香り

あいうえお作文ゑひもせす

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

啓示がうるさくて預言者学の講義が聞こえない

 

ブログを書き過ぎてブログ肘を患った。ブログを書くと激痛が走る。

思えば4年くらいブログを書いてる。何一つとして続いたもののない大学生活の中で、唯一続いていることかもしれない。じゃあ俺はブロガーだ。ブログが得意だからではなく、ブログしか残ってないから。

 

ところで、ブログ記事には2つの使命がある。人に読まれること、ないし人が読めるものであることと、ウェブ上に残ることだ。つまりブログはメディアでありアーカイブである。人が読めないブログはただのメモであり、残すことに頓着しないならSNSの投稿でいい。逆算的に、ブログとは共有と記録に値する情報が書かれる媒体であるはずだ。

だがもしそうなら、明らかに人に読ます気のない、よって残してどうなるわけでもない記事は、一体何なのか。これはブーメランというか、自問でもある。それらは、それらを自分たちのメモ帳、自由帳に封じ込めて置けなかった書き手の幼稚さ、無遠慮、自己陶酔の産物でしかないのだろうか。

全くそうではないと言えば欺瞞的だが、全くそうだとはさすがに言えない。なぜなら、ブログは確かに読まれ残らねばならないが、人は必ずしも読まれ残すためにブログを書くのではないからだ。これはあくまで私見であり、もっと言えば弁明であるが、読むに堪えない、残す価値がない(ように思える)ブログが書かれる目的は、まさにそのブログを書き書き尽くし書きおおせることである。

 

ブログは意志的に構築するものであり、言わば虚構である。私は書きたいことを書き、書いたことだけが読まれる。この記事だって、書き言葉弁慶である私の勧進帳に過ぎない。そのように虚構を立ち上げるとき、私は同時に自分の虚像をも構築している。別に他人を演じているわけではない。自分の名前の元に虚像が自ずから立ち上がるのだ。そして記事が衆目に晒され、外的に存在し始めるようになると、虚像と私は合流する。今まさに読まれているこのブログを書いたのは私だが、このブログを書くまで私はこんな文章を書くような私ではなかったし、こういう文章を期待される私でもなかった。というか、虚像に形を与えられるまで私は、少なくとも可視的な形態では、存在しなかったとも言える。

未結晶の言葉でしかなく、ゆえに蹂躙され消えかかっていた私の代弁者として、ブログは威風堂々立ち現われたのだ。しかし、それでも私は未結晶の言葉でしかないのだから、代弁者とはどれほど謙虚そうに振る舞っていても私の僭称者でしかない。私は元々個人的にブログを書いていたが、我慢ならなくなって全消去してしまった。そして再び私は書かねばならなくなる。自分のブログを消しておきながら、人様のブログで好き放題書いている。本当に芯がないから、永遠に何かを書いてる。

書き残す快楽と異なり、書きおおせる快楽(あるいは効用)は全く非持続的なものだ。ExstacyはすぐにExsistenceという死体になる。何かを書いて公開する行為は、ある点で(理想的な)投身自殺と似ている。半狂乱ブロガーが断崖から跳ぶとき、例え感傷や鬱憤に狂ってそこまで来たのだとしても、自由落下の自由に少しも憧れないで跳ぶことはない。

 

今回の私はだいぶ攻めてる。夜空みたいな谷底なのか谷底みたいな夜空なのか分からなくなってる。

ブログは墓だ。それは私の墓だが、そこに私はいない。眠ってなどいない。私は斜格の大空に遍在する。墓とは、そこにいない死者に祈るための場所である。逆に言えば、死者に祈る場所はどこでも墓だ。さらに言えば、祈られるものは何であれ死者だ。だから、祈ることは祈る対象を死者とすることであり、つまり殺すことである。再び、ブログは墓である。私の。私が全人類を祈り殺すための、地上の出先機関である。これを撤回させるために、私を呼格に引き摺り降ろそうとして、人々が私を「お前」と呼ぶと、それより1刹那、1六徳、1虚空、1清浄前に私は死んでいる。もうそこに私はいない。ただ秋山雅史がうろたえているだけだ。

千人称単数。千人称代名詞を言ってみろ。言えるもんなら。そして、このブログは砂漠に突き刺さったサボテンだ......仙人掌単数。FREE HUG。まさにそのゆえにHUG-FREE。さあ抱いてみろ、できるもんならな!...

 

 

はてな何度も何度もひっくり返したせいで、芯まで火が通ってない鶏肉は食うな。でも和尚、これは鳥じゃなくてうさぎだから食べれます。それじゃあ破戒僧じゃん。切り株に躓いた坊主を捕食するうさぎ脱兎の如く駆け出したエクトプラズムが燃えさかる名鉄名古屋本線下り線に侵入。それは晦日紅白歌合戦で、第一回からずっとスタジオに潜伏していた透明組初優勝した瞬間にに変ずる。その逆鱗に触れると、ドラゴン絶叫しながら鉢植えにエビを植える108回ふりゃあが生えてくると思ったのに、腐ったケバブが生えてきた。雨が降っていたせいだ。2023年6月11日、名大祭最終日の朝みたいに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全ての発端はと言えば、名大祭の土日に大学生の自由研究で開催した「エクストラステージ」*1の一企画「『あまつかぜ』あいうえお作文コンテスト」である。名大祭が終わってからかれこれ半年が経とうとしているが、しかし私は相も変わらずあいうえお作文のことを頻繁に(しかし散漫に)考えている。生まれてから例の企画を実施するまでの約20年間、数分だって真剣に考えたことのなかったあいうえお作文のことをである。そして私の人生は着実に歪められつつある。あいうえお作文によって、そして大学生の自由研究によって。

大学生の自由研究ってマジでなんなんだ。私は一応メンバーということになっているが、この集団を適切に説明することはふつうにできない。「何かやる」などという、もはや無いに等しい標語のもとに一つの組織がかれこれ9年間存続し、現在複数形のsをつけられるだけの人数が集まっている怪奇現象を説明することは私にはできない。私との関係から語りだそうにも、私は集団内で何の役割も与えられていなければ何の義務も課せられていないから、それはただの私の話になってしまう。

一応大学生の自由研究には、名大祭のエクストラステージや先々月に実施した「フリースタイルRTAサミット」*2のような全体行事的なイベントが存在していて、それらは何となく集団の活動の軸っぽく見える。しかしそれらにしてもやはり、つぶさに見ていけばメンバーのミニ企画の集合体であり、また参加および企画の継承の義務や使命の類いはメンバーの誰にもないので、全体行事とも恒例行事とも言い難く、ゆえに活動の軸とも言い難い。

大学生の自由研究が集団内で明確に共有しているのは、このブログをはじめとした場所である。そして、ただ場所をしか共有していない。とはいえやはり、大学生の自由研究はブログ同好会でも名古屋大学愛好会でもない。それでも無理矢理表現を考えるなら、この集団はを共有しているのかもしれない。無サークルだ(私は真理の森なる文学部に迷い込んでから、何かとすぐに無とか絶対とか普遍とか言い出して悦に入る癖がついた。数十年後、キャンパスで学生に出会い頭に意味不明な質問を投げかけてへんな本をバラまいてる私を見かけたら、学内モビリティで猛然と轢き殺してほしい)。

 

それゆえに、大学生の自由研究はこれまで少なからず“発起人・江坂大樹の個人プロジェクト”というある種の呪縛を負ってきたのではないかと私は思う。それは何より、大学生の自由研究については「集団の体を装った個人」という理解が最も簡単であり、その“個人”を一人だけ挙げるとすればおそらく最も相応しいのが江坂さんだったからである。また、「創設者」および「最年長者」という絶対的な存在感を上書きする肩書きが集団内にないからでもある。

しかしこの呪縛は、呪縛であると同時に、またはそれ以上に励ましでもある。ともすると集団が“個人プロジェクト”に呑まれかねない危うさはありつつも、個人的で個別的な活動の積み重なりが(なぜか)一つの集団を形作る仕組みの可能性、実現性を常に強かに下支えしている。体(たい)無き集団において、体(てい)と体(たい)は紙一重だ。そしてこの呪縛の面の克服が、あるいはそれだけが、現在の平衡が今後とも維持される道のようにも思う。

イムリーなことに先々月、江坂さんとトイドラさんが突如この集団を脱退し(!)、新組織「意味もなく続く」*3を結成した。もし大学生の自由研究が江坂さんやトイドラさんの模倣者と追従者の集団だったら、多分今頃には集団内で未知の奇病が流行して全員死んでいただろう。しかし今のところ、人々はほどほどに健康に生きているか、または死に損なうかしている。

十分特殊なものだけが本当の普遍性を得ることができる。通時的にも共時的にも、そもそも続いていなければ途切れない。そのような繋がっていない繋がりにおいては、ないのではなく、「ない」がある。あるべきものがないのではなく、「あるべきもの」がないのである。何かの無、不在、欠如ではなく、何かへの無。

と、私が勝手に思っている。今のは全部雰囲気で/雰囲気を言ったに過ぎない。だがもし、大学生の自由研究の“本質”が明解な言葉によって寸分も違わず言い当てられてしまったら、それは寧ろこの集団に致命傷を与えかねない気もする。その意味で、“本質”は自爆スイッチなのかもしれない。かといって、自爆を恐れて自己反省を怠るのも情けないのではないか。ではどうしたら。もし大学生の自由研究が、オイディプスを待つスフィンクスだとしたら。死の断崖めがけて猛進するいっぴきひつじの群れだとしたら。

でもそれは逆に言えば、自爆スイッチさえ押さなければ、もっと言うとそもそもそんなものがなければ、多分死なないということだ。意味がなければ終わらない。意味がないから終わらない。と、やはり私が勝手に思っている。もしこの考えが皆目見当違いだったとしても、私はなんせ人生を歪められているので(勝手に歪んでいるので)、妥当な報復です。

 

 

 

な:南極星
ご:5回点滅
や:や・ま・い・だ・れのサイン
だ:南極星
い:1回点滅
が:
く:車止めに躓いて目撃するバックミラー越しの宇宙

 

 

 

あいうえお作文とは第一に、縦読みの解体と再構築の営みである。何よりまず縦読み(お題)がバラされなければ何も始まらず、縦読みが再構築されなければそれは何でもない。

お題が名古屋大学なら、それは一旦な/ご/や/だ/い/が/くに分解されるが、最終的に再結合される。この接合は、バラされた縦読みが復旧しようとする力と、並んだ文章の間の共通項の接着力とが相助け合って可能になるが、あいうえお作文にとって本質的なのは前者だろう。

この解体/再構成は、音・文字のそれであると同時に意味のそれでもある。この再構築の後、解体前と全く同じ音・文字の元に異なった意味や情緒が、それも我々の手によって生じる点が重要である。

 

あいうえお作文の真髄が縦読みの再生力を利用した再構築に存するのであれば、この再生力を最大限利用し、またこれに妥当性を与えるために、再構築されるところの意味や情緒は縦読みの再生力なくしてはあり得ないものであるのが望ましいだろう。つまり、我々は予め狙った意味や情緒のもとに作文を着地させることに注力するのではなく、イニシャル(縦読みの各文字=各行の先頭の文字)に引っ張られながら、予期せぬ共通項へ勇んで踏み込んでいくべきだと思うのである。

予期せぬ共通項、即ち新たな平衡・秩序、意味へ踏み込む契機となるのは、現在の陳腐な平衡を解体・破壊したい欲望によるところが大きいと思うが、理想の秩序を生み出したいという欲望も同程度にはなくてはならないだろう。そして、やや突飛にも思えるが、その理想とするところが当の本人でもよく分かっていないこともさらに要件に加えたい。言いたいことを言えるかもしれないという期待、フロンティア感から作文するのでないならば、つまり既に言いたいことがはっきりしているのであれば、わざわざあいうえお作文などという迂遠極まる方法に訴える必要がないからである。

そしてそれは、言えたときにはじめて言いたかったことが分かるということでもあり、そこには時間を遡行するような動きがある。だから、あいうえお作文がたどり着きうる予期せぬ共通項=新たな平衡とは多分、作者にとって全く新しいもの、全き新天地ではなく、何か新しい故郷とも言うべき微妙な境地なのだ。既にあるものを解体し、それを利用して再構築を試みることが意義深い所以でもある。

 

ところで、解体と再構築は、さしづめ「からの逃走」と「への逃走」である。しかし本当に重要なのは、「からの」でも「への」でも、はたまた「逃」げることでもなく、「走」ることだ。何かは分からなくとも、何かが行為を徹頭徹尾貫いていることが大事だと思うのである。

我々が仕方なく行う全てのことは何かしらの意味において有意味でなくてはならない。その全てに意味があるのでなければ、つまり少しでも意味がない瞬間が存在するのであれば、全てに意味がないも同然だからだ。全てを有意味にできない次元で考えられた意味など、何の説得力も持っていない。全てを有意味にできない言説は“説得”であり、説得は説得力を持たない。

 

 

 

 



 

私は多分、ここ数年間では最も「名古屋大学五十年史」を読んでいる名大生だろう。打倒「ちょっと名大史」*4を目論む狂カマキリブロガーである私は、これまで何本か名大史をテーマに「五十年史」などを参照しながらオタクの早口みたいな記事を書いてきた。そのせいで、春頃からオタク顎を患っている。早口で喋ると激痛が走る。

読んでいるどころか、実は持ってもいる。この前のホームカミングデーのリユース市でたまたまこの書物が売られているのを発見し(榊原さんに教えてもらい)、通史一・二、部局史一・二を各500円の2000円という破格でついに入手することができたのだ。これを僥倖と言わずしてなんと言おう(うっかり藤井語録が出てしまった)。

私は名大になかなか執着している。だが私は、名大以前にそもそも大学一般に、それも名大入学前からわりと興味と関心があった。だから、こういう妙ちきりんなブロガーに成り果てた現在は、そこそこの昔からそれなりに妥当な未来ではあったのだ。入口はやはり受験だった。私は高3の秋あたりから“大学厨”で(だからちょっと学歴厨でもあった)、全国津々浦々にさまざまな大学があることが面白かったし、当時は特にそれらの大学が似たり似なかったりする受験問題を毎年繰り出してくるシステムが面白かった(受験勉強が好きだったわけではない)。

 

私が個人的に面白いと思うものがどれだけ普遍的に面白いのかを知りたいから、または「おもしろ」がどれくらい人生の中で重要性を持っているのかを知りたいから、または楽しいだけで面白くないものと距離を置きたいから、私は面白く感じられるものの何が面白いのかを時々考えたり考えなかったりする。それであるとき、自分は“シリーズ”に興味を惹かれがちかもしれない、という一つの気づきを得た。

シリーズとは、同じ資格・カテゴリーを有した違うものの集まりであり、雑に言えば普遍性と特殊性を同時に持つものである。名古屋大学も、言ってみれば「名古屋」という特殊性の部分と「大学」という普遍性の部分が共存しているからこそ面白い(考えようによってはこれを逆転させることもできる)。

一方で、シリーズと似て非なる、あるいは似ざれど同じものである、記号的なもの、象徴的なものへの興味もまた自分に認められるような気がする。それはざっくり言えば多義的なものであり、具体的な例を挙げるのは難しいが言葉はひとまずそうである。

これらを要約するに私は多分、相異なるものがあるレベルで同じ何かを共有したり、同じものが文脈によって違う意味を持ったりすることを面白く思う。表現が抽象的過ぎて、もはや森羅万象がこれに該当するのではないかという気もしてくるが、おそらく万物は潜在的に面白いのである。面白いというよりか、面白がる余地があると言った方が適切だろう。

面白さとは多分、面白がる余地のことだ。これには我々の面白がる余力も含まれる。くだらないこと、しょうもないこと、どうでもいいことが逆説的に面白いのは、逆張りマインドが喜んでいるからではなく(それもあるだろうが)そこに面白がれる余地があるからだ。こう書くとややこしいが、面白くなるのが面白いのであり、語弊を恐れず言うなら、まだ面白くないものが面白い。逆に言えば、もう面白いものはもう面白くない(それでも、もう面白いものは楽しいので蒸し返される)。

「ものに予め個々別々の面白さが宿っていて人々がそれにアクセスする」というおもしろ実在論(?)も、「人々に面白センサーがあって特定のものがそれに適う」というおもしろ観念論(?)も味気ない。「人々がものの組織に各々の(しかし勝手ではない)面白さを読む」という相互的、生成的な構図が個人的に一番しっくりくる。そしてその読む面白さというのが、私においては主にシリーズ性と記号性であり、さらに言えばそれらは多分、面白さの読み方に関わってくるから面白いのだ。

だが、ものに内在する面白さも面白センサーも否定してしまったからか、何か一つのことにコツコツ取り組む、みたいなようなことが滅法困難になってしまった気がする。そもそも上のような考えに至る以前から、なんとなく「自分は全部に興味があって全部に興味がないな」と思うことがあったが、要はそうなのである。こんなA∩Āみたいなことばっか言っていたら、いつの間にか私の人生は空集合みたいになってしまった。でもリビング空っぽの方が、ソファ詰め込める。

 

 

 

な:流れない音楽についての断章
ご:5篇
や:ヤモリとイモリの見分け方 ヤモリじゃない方がイモリ イモリじゃない方がヤモリ
だ:大ライスの少なめか、小ライスの大盛りください すみません、うちは中ライスしか置いてないんですよ
い:一輪車で15分かかる道なんだから、車なら1時間かな? 先生、スペアタイヤがございます
が:学校に行きたくないよ、ママ! コラ!ママは三回でしょ
く:苦しいよ、ママ、ママ、ママ! コラ!コラ!コラ!

 

 

 

あいうえお作文が何かしらの可能性・革新性を有しているとするならば、それはあいうえお作文が独自に持っている形式的特徴だけから導かれるべきであろう。それのみならず、あいうえお作文が今後模索すべき戦略、美徳、ひいては哲学(!)も、その形式的特徴からして妥当なものであるべきだ。

あいうえお作文に予め課された制約は、各行のイニシャル行数(=行間の数)の2つだけである。「なごやだいがく」というお題なら、各文字で始まる7つの文章を、6回の小休止を挟んで並べなければならない。

 

形式は制約であるが、制約こそが創造性の源泉である。制約は、それを乗り越えるための非常識的な方法・方法論を要求するからである。それは、“センス”を提供することでナンセンスを可能ならしめているということでもある。

制約を乗り越えるとは、制約を寧ろ必然的に要求する表現の方法を提案することであり、制約なくしてはうまく機能しない美的なシステムを組織することである。それが達成されると、制約に制限されているところのものは別様に表現(re-present)される。

あいうえお作文に課せられた制約は、繰り返しになるがイニシャルと行間であった。これらの制約が制限するところとは、ざっくり言えば作文の自然さ、一体感、統一感である。イニシャルに振り回された”失敗の”作文は、ぎこちなく舌足らずで、行間の来るタイミングも非効果的な、(イニシャルにもテーマにも)「合わせにいった感」に満ちたものになりがちである。

「合わせにいった感」の原因になっているのは、イニシャルという制約のタイトさと同じくらい、その他に一切制約がないというルーズさでもある。一言で言えば「何でもあり過ぎる」のだ。例えば短歌なら、31文字という要件を満たしているだけでそこそこ短歌らしさが感じられるが、あいうえお作文だと、ただイニシャルに合わせただけの最低限の作文ではどうもだらしなすぎる。そうなると我々はつい、イニシャルやテーマに縋った(だけの)つまらないポエムで妥協しようとしてしまう。

ということなので、この「合わせにいった感」を、技巧によって誤魔化すのではなく、方法・考え方の次元から検討し直すことによって解消することが、さしあたってのあいうえお作文の課題と言っていいだろう。

 

所与のものを与え返す、これは小さい奇跡である。決められた形式を持つ表現行為はいずれもこの小さい奇跡を起こすことが一つの達成であるように思うが、あいうえお作文においてはとりわけそうである。それは、形式が音や構造、内容の美しさと何の関係もなく(逆の例では、俳句の季語や音節の縛りは美的効果に直結している)、それだけ一層、そのような美に関して無関心・無意味な形式が俄然、奇跡的に、情緒的なものを組織し逆襲してくることの意義が強まるからだ。

あいうえお作文がこれまで侮られ冷遇されてきたのは妥当なことだった。あいうえお作文は生粋のリベンジャーだからだ。しかしそれにも関わらず、リベンジの時、革命の時が来ることはまずないだろう。

あいうえお作文はさながら地球破壊爆弾である。地球破壊爆弾の地球破壊性は、まさにその地球破壊性のゆえに検証できない。奇妙なことだが、地球破壊能力の有無は地球破壊性とは関係ないのである。そしてまた地球破壊性のゆえに、地球破壊爆弾は地球上では使用することができず、結果的にネズミ一匹殺せない。それは裏を返せば、たかだか一匹のネズミを殺すためだけに振りかざされるから、地球破壊的であれるということである。地球破壊爆弾ははじめから宇宙戦争のための兵器ではなく、徹底的に対ネズミ戦用の道具なのだ。

あいうえお作文は現代短歌の歌人を皆殺しにしないし、インターネット上のかぶれポエマーどもを血祭りにあげたりしない。あいうえお作文ははじめからただお前を殴るために、殴りつけるために、そして殴り損ねるために存在する。

 

 

 

 

 

 

名大発コンテンツの最深奥、「コメントクラブ」(コメントクラブ comment club - YouTube)をご存知だろうか。それとは、例の江坂さんが約5年前から(!)コツコツYouTubeに投稿している動画のシリーズである。

コメントクラブとは、「あらゆる対象について、なんらかのコメントを生み出し、それを分類する活動」であるとホームページ*5で紹介されている。動画を見てもらえば分かるが、実際にしていることはこれが全てである。対象にコメントし、そのコメントを分類する以上の何もしていない。だから、一見しただけでは「成人男性のひとりごとチャンネル」である。

 

そんなシンプル極まりないコメントクラブの活動にもスタイルの変遷がある。当初は、快活な雰囲気の中でとにかく自由にコメントし分類するものであったが、時間が経つにつれて、徐々に謎の精神修練か芸術活動の趣を帯びるようになってきた。見る人が見ればちょっと心配になりかねない変化であるが、一ファンの管見では、これは徐々にコメントクラブが実践(コメントを生み出すこと)の方面で特有の考えや方法を編み出してきたことによるものと思われる。

コメントクラブにはざっくり「分類」と「実践」の2つの領域があると言える。コメントクラブが「コメントには事実・感想・評価・意見の4タイプがある」というテーゼを引っ提げてこの世界に出現して以来、分類、あるいはコメントの類型論から関心が逸れたことはおそらくない(実際、分類の基準から分類の数まで色々の異説がこれまで提起されてきており、絶対唯一の定説というのは存在しない。なので、毎回動画の最後には分類者が明記されている)。しかし思うに、コメントクラブが4分類を発明したとき、全く同時に“コメント”という何かもうっかり発見していたのである。この謎に向かって、そしてこの謎を巡って活動が展開されているのだとしたら、実践という領域に関心が向けられるのは自然な成り行きではなかろうか。

コメントクラブはそのシンプルさのゆえに、常に凡百のエンタメコンテンツのエピゴーネンに堕する危険性にさらされていると言ってよい。エンタメであるというのはつまり、視聴者に喜怒哀楽の感情を引き起こすことが目的になっており、その限りでしか価値を持てないということだ。具体的には、そしてとりわけ危険なのは大喜利である。大喜利は、近くて大きいゴールをくれるし、それによって強くて速い快楽を提供してくれる。しかし、ゴールとは文字通りゴールであり、コンテンツの終わりである。一度迂闊にも大喜利に魂を売り渡してしまったコンテンツがそれから何かもっともらしいことを言ったとしても、それは大喜利の失敗でしかない。

コメントクラブがそのような邪道、誘惑に逸れることなく、今に至るまでアイデンティティを保てているのは、分類と実践が(もとい全ての活動が)深い部分で通底し連携しており、かつそれらが内発的な動機に支持されているからだろう。このために、コンテンツは大喜利はじめエンタメの力を借りずに自走できる。これを私はコンテンツの“体幹”と呼びたい。

以上は無論この記事の関心を切り口とした理解であり、個人的な見解であって、百聞は一見に如かずとかいうようにとりあえず見てもらった方が早い。多分何なのかよく分からないと思うし、私も何なのかそれほど分かっていない。かと言って、全く分からないわけでもない。分かりそうで分からない少し分かるコンテンツだから、5年間も継続しているのだ。

 

 

 

な:納戸でミミが死んでいました
ご:ごはんをあげなかったから
や:痩せ細った腕の上で
だ:ダニが気持ち良さそうに眠っていました
い:イグサの草むらを抜けるとそこは
が:がらんとした湖のほとりで
く:朽ちた丸木舟が一艘静かに浮かんでいます

 

 

 

あいうえお作文の形式は、和歌などのそれと較べると、現実の情景を直接表現するのに向かないように思う。制約が逐一効果的でなく、これを窮屈な散文詩以上のものにするのは至難だからである。それ故に、あいうえお作文は現前していない光景や非現実的なシチュエーションについて書かれがちであるし、実際それが本領であると私は信じている。

そのようであるあいうえお作文を作るにあたっての最も重要で本質的なフェーズはほぼ間違いなく、与えられたイニシャルで始まる言葉を探索するフェーズである。

記憶の探索は、完全に作為的でも無作為的でもない。縦読みの印象や漠然と意図している作文の構成を念頭に置いて取捨選択を行いながらも、それでもやはり、偶々思いついた単語や構成が方針を不可逆的に歪めていく。そのようにして、半ば偶然に踏み出した一歩一歩が、完成時に振り返ってみると全て必然だったかのように凝集している。作為と無作為のあわい、偶然と必然のあわいに、作文の営みはある。

人称の表現を用いれば、作文行為は二人称的だと言えるだろう。言葉の探索は、能動ばかりでも受動ばかりでもない、何かとの相互的な交渉のように行われる。

これを「イニシャルはより良いあいうえお作文へ作者を導くギミックである」と理解するのは、間違っていないかもしれないが正しいとも言えない。イニシャルがしていることは、端的に言って我々の構想の妨害である。逆に言えば、我々は我々でイニシャルが喚起する構想に抵抗しているのだ。それはつまり、イニシャルと我々の間で、あるいは縦読みと横読みの間で小さな解体と再構築が繰り返されているということに他ならない。作文が完成した状態は“平衡”である。

 

このような形で、あいうえお作文は未知の何かに向かって常に開かれており、これを霊感の源泉としている。霊感の源泉であるというのは、模倣の不可能性をもたらすものであると同時に、これを利用する方法の妥当性の源泉でもあるということだ。

ここに我々は「間違っていない」あいうえお作文へ至る足がかりを得る。それは、「正しい」/「間違った」というような規定=既定的な、与えられた、収斂的な修飾語から逃れることに始まる。その時点ではまだ「正しくない」あいうえお作文である。ここから「間違っていない」あいうえお作文に向かうには、作文を肯定する原理的な、つまり完全に内発的でありながら外的でもあるモチベーションが必要になってくるであろう。

正しい仕方に対して新しい仕方を規定し返すのでは、「正しさ」の再生産になってしまう。そうするより他に「仕方ない」ところを探り、そこへ立ち返らなければならないと思う。

 

 

 

 

 

 

名古屋大学がどんどん小ぎれいな空間になっていっている。気がする。個人的にそれが一番感じられるのは、放置自転車がどんどん駆逐されているところにである。ここ数年では、フレ南前、経済学部棟前、北部前などから放置自転車が撤去された。名大ってデカい駐輪場だと思っていたのに。

名大には、減ってはいつつも依然、駐輪場なのか駐輪場じゃないのかよく分からない空間や、駐輪場じゃないのに駐輪場みたいになっている空間がちょこちょこある。

私は一度名大の全ての駐輪場をリスト化しようと企てたことがあったが、これらの謎の空間の存在のせいで挫折した。正確には、これらの謎の空間をどうしても駐輪場と認めたいがあまり、「駐輪場があるのではなく、標識や自転車によって駐輪場化された空間があるだけだ」という結論に至って、”駐輪場”という概念と企てが中空に解消したのだ。

 

「放置自転車はその存在する境界内を駐輪場化している」という理屈は今言った通り、名大における放置自転車の市民権(?)を主張するために生み出された暴論である。だがそもそもどうしてそんなことをしたかったのかと言えば、その当時、そして今も、空間の支配的な意味づけを揺るがす存在、総称してノイズを私が渇望していたからだ。

ノイズは台無しにする。ノイズは圧力を逃がす亀裂である(だから、ノイズの入ったノイズもまた腑抜けて台無しになる)。ゆえに、それは外部への逃げ道、抜け穴でもある。ノイズは外部へ通じているし、ノイズ自体大体は外部からやってくるものだ。

例えばタテカンやビラはしばしばノイズである。人だってノイズになりうるし、音や声も字義通りノイズになりうる。それでも、私は放置自転車に、というより自転車というオブジェクトにとりわけ感じるところがある。それは軽さ、自在さ、メッセージの無さ、多様さ、大きすぎず小さすぎないこと、自力で漕いで持ち込まねばならないこと、危険な高温を発さないこと、運転に免許が要らないこと、中学生や高校生の主たる通学手段であること、...ひっくるめて言えば我々の等身大であることが心を惹くのだ。

ノイズは、図々しさと同時に謙虚さも、力強さと同時に無力さも持ち合わせなくてはならない。ノイズは負けてもいけないが、それ以上に勝ってもいけない。脅威となってはいけない(放置自転車プールが滅ぼされたのは当然の運びであった)。ノイズの使命は引き分けに持ち込むこと、先方の勝利を(つまり勝負を)台無しにすることである。

 

こう書くと何か非常にテクニカルなことのように思えるが、ノイズを生み出すのには何の特殊な技術も心得も要らない。ただ自適に、自由に振る舞えばいいのだ。それが然るべき状況下で自然にノイズになる。

だから逆に、ノイズを生みだそうとしてはいけないし、技術を編み出してはいけないのである。自由はその名を呼んだ途端に消え失せる(これは別に名大に対して言ったのではない)。自由はあれであるとか、これであるとか言えない。多弁はもれなく駄弁だ。だから結局、ノイズには自己紹介しか、あるいはトートロジーしか許されない。

ただ自由に振る舞う、こんな単純で簡単なことが、まさにそれゆえに複雑で難しい。難しく考えているうちは絶対に遂行できないが、かといって思考を放棄したらできるというものでもない。ならどうしたらいいのか、そんなことは、私が教えてほしいくらいだ(しかし教わった時点でまずそれは自由ではない)。

この記事は何か自由について書いている風であるが、自由について書かれた文章は一切の例外なく不自由についてしか書いていない。不自由からその補集合としての自由へは(さながら否定神学のように)いくらでも接近できるが、漸近線のように決して触れることはないし、それどころか似せれば似せるほど偽物になる。書けば書くほど取り逃がす地獄の作文。地面深く掘りすぎて、崩落した土砂で生き埋めになる放置自転車擁護論。いやもう、俺はこのままブラジルに行くんだ。ブラジルに行って、ブラジルで牛飼うだ。

 

 

 

な:南無阿弥陀仏
ご:午睡の池で
や:ヤゴはそれまで
だ:黙っていたが
い:いろはにほへと
が:蒲の穂先で
く:空也に答えて

 

 

 

あいうえお作文はやはり散文詩ではない、と改めてここで断っておかねばならない。あいうえお作文を真に擁護するということは、「あいうえお作文はひとかどの詩である」などと主張することではなく、「あいうえお作文はあいうえお作文である」と主張することである。そのような主張を打ち立てるには無論、あいうえお作文に固有の領域を画定するための考察が必要である。

「あいうえお作文みたいな詩」とは、要するに縦読みが存在する詩のことであり、結果的にあいうえお作文になっているだけの詩である。紛れもなくあいうえお作文と呼ぶにふさわしいあいうえお作文とは寧ろ原因発端においてあいうえお作文であるそれである。「あいうえお作文でもある詩」は真のあいうえお作文とは言えない。

「あいうえお作文は詩ではない」と主張すべき理由は、その固有の方法の存在のみならずその理念的な部分からも導かれるだろう。あいうえお作文を「解体/再構築」にその核心・奥義を持つところのものと把握するのであれば、それはいつでも既存の類型から積極的に逃れるべきではなかろうか。

ところで、これは「詩的な文章を書くな」ということでは勿論ない。寧ろ、詩でなければ存在する価値がない。というか、真に詩たろうとするからこう言うのである。私は別に詩の何を知っているわけでもないが、少なくとも別の流儀の亜流に堕することが詩において最悪の状態であるのは確かだと思う。

 

この記事で私は「あいうえお作文原理主義」とも言うべきスタンスを取っている。私はあいうえお作文の「あいうえお」を考えている。

「あいうえお」とは、五十音表の縦読みであり、逆に言えば五十音表は“原初のあいうえお作文”であると言える。五十音表が日本語全体を表わしているとすれば、五十音表は”完全あいうえお作文”、“理想/仮想あいうえお作文”でもある。このことから、「あいうえお」とは“原初の/完全/理想/仮想あいうえお作文”の縦読み発生であると言えよう。「あいうえお作文原理主義」とはこの意味で「あいうえお主義」である。

ところで、五十音表以外に”完全あいうえお作文”は存在し得ないが、しかし五十音表そのままの「あいうえお作文」は作文として端的に言ってゴミである。五十音表は象徴でしかない“不可能あいうえお作文”だからだ。ここにある種の失楽園的状態を見て取れる。それでも、縦読み「あいうえお」の時点ではまだ正常なあいうえお作文を展開できる可能性が残されている。「あいうえお主義」をこのような“不可能な理想状態への挑戦”的な意味にとることもできるだろう。

こういうわけもあり、私は「あいうえお作文」というクソダサい名前にかなり愛着を持っている。だがそんなこじつけじみた(というかこじつけの)理由より、もっと率直に、このクソダサさが快いからという理由の方が大きい。「あいうえお作文」などという、人をナメ腐ったような、ボケてもないのにスベってるオワコンの名前の言葉遊びしか、名古屋大学文学部人文学科哲学倫理学コース(現・文献思想学繋)などというそれは高尚な組織に在籍する私は、やる気になれない。

 

 

 



 

私が大学生の自由研究に加入する直接のきっかけになったのは、江坂さんが運営していた「東山カルチャープレス」というサイトに「名古屋大学の正面」と題したコラム記事を寄稿したことだった。大学生の自由研究ではブログ記事をチマチマイライラ書くことを主な活動としている私だが、それらの記事の関心は結局2年前のこのコラム記事のそれから大きく逸れてはいないし、それどころか同工異曲まである。

 

記事で書いたのは、正門なき(よって正面なき)名古屋大学においては、どこか威圧的な山手通り沿いのゲートと同じように、素朴で不細工な南部の入構口も“正しい”入口であり、それが大学で孤立しかかっている自分には大変な慰めである、というようなことだった。

東山キャンパスに正面がないというのは、一つの意味としてその多面性の謂いである。少なくとも南部・北部・理系と3つの趣向の違う空間があり、その中でも、例えば南部なら2グリ側とア法館側とでまた趣が違うし、全学棟側もまたそうである。境界が錯綜しているのだ。

正面の不在は、蓋しキャンパス内外の境界の曖昧さとも関連している。東山キャンパスは中央を南北に走る片側二車線道路(と地下鉄)に一刀両断されており、この道路沿いおよびこれと垂直に交わるグリーンベルト周辺ではキャンパスの境界が溶けていて、平日日中でも近隣住民、南山生、高校生、幼稚園児などがわらわらしている。それ以外にも、山の上あたりも構外なのか構内なのかよく分からない感じになっていたりする。

ところでこれと対照的なのが、愛すべき隣人・南山大学である。南山大学がキャンパスデザインの統一性へかける尋常ならぬ情熱には驚かされる。なんでもキャンパスのほぼ全域のデザインを著名な建築家が手がけたそうで、言ってみればキャンパス全域が豊田講堂みたいなものなのだ。2グリも7号館も理学部G館もブチ壊して全然違う空間に作り替えてしまう名大との違いは歴然である。

 

東山キャンパスのとりとめのなさ、南山大学との違いの一つ説明として、この原因をキャンパスの歴史に帰すことができる。名大も南山もともに総合大学であるが、そのバラエティの獲得方法が全く異なる。当初の組織から展開・拡大するようにして総合大学化した南山に対して、名大のそれは既存の高等教育機関(名帝大、旧制八高、名古屋高商、岡崎高師、...)を寄せ集めて生まれたものである。そしてこれらの機関、市内県内各地に分散していた諸前身校が漸次的に結集した地こそが東山キャンパスであり、東山キャンパスは言わば東山連邦なのだ。

またそのことは、東山の地が過去を持たない土地であり、また名大の(非医)諸学部が各々の故郷と断絶しているという事実をも示す。根がないのだ。戦後しばらく、まだ建物の少ない荒涼とした東山キャンパスの地は「東山砂漠」と呼ばれていたそうだが、それから半世紀以上を経た今でも、思うに東山キャンパスの本質は砂漠である。

そしてそのような土地の象徴として建つ豊田講堂こそは、過去を持たない東山砂漠に聳えるオベリスクだ。その他の有象無象のビルやら何やらが所詮砂漠に躍る蜃気楼に過ぎず、賽の河原のように建てて壊してを繰り返す運命にあるのに対し、豊田講堂だけは真に東山キャンパスに根ざしている。

しかし根ざしているとは言ったが、豊田講堂のあの異様な偉容は、東山キャンパスの原風景でもなければ未来像でもなく、そして理想像でもおそらくない。つまり異質でしかない。あれは一体何なんだ。場所と時間に最も深く根ざしていながら、完全に絶してもいる。

 

それは一旦置いておいて、それでは、故郷を失った上どこへ行くのかも分からない“不老町”名大は、はたして“迷大”なのであろうか。私はそうでもないと思う。原型も理想型も持たない東山キャンパスは、開き直れば全ての時点で完成形であり、また全ての地点が等しく完成形ということでもある。その様態は旅のそれに近い。それも、現代のいわゆる旅行と言うよりか、なんか「おくのほそ道」的なそれである。場所および時を、過ぎながらに過ごしてもいる。

ここで冒頭の”正面”の話に戻ると、やはり東山キャンパスに“周縁”はないのだが、それは必ずしも慰めではない。インターネット格言によると、「地球が丸くできているのは、誰も隅っこで泣かないため」であるらしい。しかしそもそも思うに、隅っことは人が泣くためにあるのだ。隅っこなき空間とは泣くことを許さない空間である。この泣き難きを泣くためには、渡るべからざるはしのはしを渡るような曲芸が繰り出されなければなるまい。

隅っこのない地球上には中心もまたない。だがもし、地中奥深く、地球の殺人的高温・殺人的高圧の内核の内部にじっと座る超人がいたら、地球上の全人類は相対的に“隅っこ”に追いやられ、めそめそしくしく泣くことになるだろう。いい気味だ。では、地球の最深部を目指せばいいのか。でもそうすると、肝心の超人はド中心に来ることになるので、泣けない。いや、どのみち泣けないんかい。所詮、孤独も孤高も感傷への隷属状態でしかなく、少しも自由ではないということだ。それじゃあもう、地球なんかぶっ壊したらいい。RADWIMPSなんかぶっ飛ばしたらいい。地球をどうこうするらしい、未来の爆弾をやるから。

 

 

 

な:なまくらのマチェットと生煮えのキャッサバ
ご:ゴム農園で涼んでいて思い出した
や:夜盗が踏んづけて死なせた雌鳥
だ:脱毛症で斜視で吃音で傴僂で癇癪持ちだったおばあちゃんが
い:一度だけ教えてくれた卵料理
が:ガソリンで遊んで失明した従兄弟を連れ帰った畦道
く:くたびれたサンダルと腐りかけのグアバ

 

 

 

あいうえお作文において、大抵の場合お題(縦読み)と無関係な情景が描写されることは既に述べた。この縦読みであるが、本文に属しつつも完全に本文であるとは言えず、しかし本文と分離したタイトルではない。縦読みは、あいうえお作文において「空虚な中心」となっている。

かと言って、横読みは横読みで周縁に甘んじているわけではない。寧ろ(というか自明に)メインコンテンツである。縦読みと横読みは、一方が前景化すれば他方は背景化する、という関係にある。

ここまで、横読みが縦読みの意味を分節・解体している点にばかり注目していたが、同様に縦読みも横読みを分節・解体しうる。つまり、あいうえお作文における解体と再構築はいつも少しだけ不完全なのだ。だがそれ故に、あいうえお作文はナンセンスポエム、不思議リリックとの親和性を持つ。堅牢なものを打ち立てるのには向かないからだ。

あいうえお作文の縦読みと横読みの間にはこのような微妙な関係が成立しているが、やや違う観点から言えば、それは縦と横という読む方向の直交である。この垂直水平の2方向の存在によって分節された各行は微妙な独立性を有することになる。この独立性が、4コマ漫画のように展開を明確化しながら、かつ個々の行を展開から剥離させるようにも働いている。

 

この特性は、当然と言えば当然だがあいうえお作文の読み方にも影響してくる。接着剤でも仕切りでもある「間」が均等に文中に挟まっているあいうえお作文においては、予感余韻とでも呼ぶべき感慨が読む経験の中核にあるように思われる。無理くり言葉をこじつけて説明すると、予感とは反復・回収への期待、偶然に必然を直観すること、普遍性を察知することであり、余韻とは反対に、逸脱の発見、必然に偶然を感じ取ること、特殊性に驚くことである。

このような“積極的に読まれる”(自発の「る」)読み方、言葉の意味・イメージを開きっぱなしにしておく読み方は、あいうえお作文と親和的であると思うが、反面おそらくユニバーサルな評価基準や普遍的な理解を生みだしにくいだろう。その代わり、これまで「ナンセンス作文」で片付けられていた作文に読める可能性が見込めるようになるはずだ。それが仮に曲解と謗られようとも、あいうえお作文は本来的に個人的なものであって、言わばはじめから曲がっているのだから、誤解でないなら曲解ではない。ここにおいて普遍性とは、曲がっていないことではなくいかようにも曲がることである。

作る段階から読む段階に至るまで、この記事はあいうえお作文を徹底的に個人的なものに変えようとしている(完全ではないが)。それが傍目には、私があいうえお作文を私物化し、独占しようとしていると映るかもしれない。実のところ誤りではないが、だがそもそもあいうえお作文が共有された状態とは全員があいうえお作文を奪われた状態でしかないのだから、寧ろ全員が率先して私物化に努めるべきではなかろうか。その各々の私物化の方法にこそ、通い合うものが見いだされるべきだ。

 

 

 



 

鳥は名大の裏名物*6の一つである(正確には鳥の群れ)。大学に行けば、だいたいそのへんをうろちょろしている。

鳥は侵入者であり、通行人であり、異邦人である。鳥はどこかしらから訪れ、どこかしらへ去っていく。鳥は名古屋大学の運営・教育・研究と一切関わりがないが、名古屋大学にのこのこやってきたり、あまつさえ住んだりする。なんなら汚しもする(それも結構)。

キャンパスをふてぶてしく、何食わぬ顔で闊歩する鳥は、自分のルールでキャンパスを歩いている。人の道は鳥の道ではなく、逆もまた然りである。それでも、鳥と人は同じキャンパスを共有している。鳥の意味でキャンパスを読む鳥の存在が、我々のキャンパスの意味づけを揺るがす...などということはない。鳥は無力だ。それでも、揺るがしうる可能性を示してはいる。

鳥のふてぶてしさには時々、しかし大いに励まされる。名古屋大学と何の関係もないくせに、勝手に飛んできて、そこらをウロつく鳥のふてぶてしさには。

だが思えば日々の我々だって、ふらふら地下鉄やらチャリやらでやって来たかと思えば、授業を受けたり受けなかったりして帰るだけと、ある意味鳥みたいなものだったりするのかもしれない。もっとマクロな視点に立てば、人々はどこからか名大にやってきて、4年そこらいた後どこかへ去っていく。急にマックができたかと思えば、2870日と9時間いた後どこかへ消える。北部厚生会館が46年間居座って、そろそろいなくなる。我々は見ようによっては、「東山キャンパス」という板の上でダンスダンスレボリューションをしているに過ぎない。

 

鳥と私は勝手にキャンパスで遭遇して、キャンパスですれ違うだけだ(時々私が鳥を写真に撮る)。しかしこの「キャンパスで」というだけの接点が、頭がおかしくなるほど重要なのだ。

一期一会ではない。それは本当にどうでもいいすれ違いだからだ。そのどうでもいいすれ違いに絶えずついて回るくだらない副詞句が、そしてすれ違う度に逐一この副詞句が生じることが問題なのである。

ここに放置自転車のロジックが再生する。東山キャンパスがあるのではなく、我々という現象の継起によって東山キャンパス化された空間があるだけなのだ。キャンパスに書き込むことでそれに包摂される。与えられることによってではなく、与えることによってその一員となる。と言っても、それは何ら奇抜な実践を要求しない。ただ行き交うだけでもいいのである。本当は。なぜなら、真に読んでいるとき、それは書いてもいるからだ。

 

ところで、鳥はれっきとしたノイズである。しかし、それは自転車と全く同じようにノイズなのではない。自転車は逸脱において、内から外への動きにおいて、関係者から微-非関係者のポジションへ滑り出すときに最もノイジーであるが、鳥は包摂において、外から内への動きにおいて、そして非関係者から微-関係者のポジションへ滑り込むときに最もノイジーである。ここでいう「微」とは、その関係が固定・決定されていない、曰く言い難いものであることを意味する。例えば同じ鳥でも、捕獲して飼育したりすれば鳥は微-関係者ではなく関係者となるだろう。それはもはやノイズではない。そこから微-非関係者へ滑り出せばノイズである。

この二者について、前者を解体的、後者を構築的と形容してもよいだろう。とは言っても、やはり両者はノイズなのである。さっきはノイズの解体的な面に専ら注目したが、解体的なものは大概において構築的でもあるし、逆もまた然りである。というのは、両者とも境界の読み替え・攪乱の一側面であるからだ。そしてそれ、解体的かつ構築的なノイズ的立ち回りこそが、Aを“A化された空間”に還元する放置自転車論法の両輪・両ペダルなのである。

 

だが、それは裏を返せば、その空間の(絶え間ない)A化を怠ると主張の効力が衰えて、空間がただの“板”と化すか、または空間を奪還されてしまうということでもある。まさに自転車と同じで、漕いでいないと倒れてしまうのだ。だから、走り続けなければならない。右のペダルを持ち上げるために左のペダルを踏み込み、左のペダルを持ち上げるために右のペダルを踏み込まなければならない。走るために走る。つまり走る。

東山キャンパスという虚像を立ち上げ続けるために、書き込み続ける。書き込み続けるために書き込む。続けようと意志する限り、そこに“完了”など、終わりなどありようがない。それはつまるところ永遠だ。改めて考えると、何と不毛で無意味で、絶望的で無慈悲に感じられることか。

しかしそれは、俯瞰的な視点に立つからそのように見えるだけなのである。その気の違った営みの最前線で試みられていることとは、我々の気を滅入らせるこの永遠を瞬間のうちに先取りしてしまうことに他ならない。それはちょうど、東山キャンパスが完成を先取りするのと同じように、そして、あいうえお作文が、当の私が分かっていなかった私の本当に言いたかった言葉となって世に現れ出るように。

 

 

 

な:南京虫の夜伽
ご:ゴミ箱のモナ・リザ
や:夜警団が表で揉めてる
だ:誰かが井戸に粉ミルクを投げ込んだらしい
い:いつまでも美しい愛を
が:額から降ろされたキリストは血まみれの手で
く:クリスマスツリーに石を投げた

 

 

 

これまでのあいうえお作文における技術とは、私の認識する限りでは、縦読みの意味と密接に関係した、あるいは縦読みを正面としたときにその“側面”となるような作文を作ることであった。確かにこの方向性で作文することは、あいうえお作文の形式を考えればかなり合理的で穏当なように思われないこともない。

だが、蓋しその“安直な穏当さ”こそが、これまであいうえお作文の可能性を大いに制限してきた。可能性の縮減という意味で致命的なのが、そのような作文における各行の文章が、タイトルと化した縦読みとの意味の関連において、しかしその限りにおいてしか妥当性が保障されない点である。オリジナルの意味が妥当性の源泉であるため、その解体にやぶさかであり、ゆえに作文の際には制約がただの障害となってしまう。そのような典型的あいうえお作文は、要するに「正しい」あいうえお作文であり、またややもすれば「間違った」あいうえお作文へ転落してしまうだろう。このことは既にどこかで書いた。

そして特にこの方法が失敗であるのは、技術ではどうしても払拭しきれない「合わせにいった感」が生じる点である。なぜなら、などと説明するまでもなく、文面でもう「合わせにいっています」と宣言してしまっているからである。

 

「合わせにいった感」とは、思うに下心の一側面である。下心がいつも白けさせる。それは作文の虚構性を中途半端に暴露し、作者やその有限の意図、思想の存在を仄めかす。それはまた潜伏する視線であり、作文の(解)読者に「評価者たれ」と目配せをする。こういった作者の痕跡のために、読者は孤独になれない。

では下心が一切無ければいいのかと言われるとそうでもない。下心のない表現はくだらないうわごとである。“新しい”あいうえお作文は、下心とうわごとの間で揺れ、または踏ん張る。失敗すれば、何か言った気になってるが全然意味が分からない痛々しい作文ができたりするが、上手くいけば、突拍子もないように見えて不思議に意味深な作文、あるいは要素に還元できない情趣で充溢した作文が生まれるだろう。そういった作文の背後にあるものを、ここでは“上心”と呼んでみる。下心と上心は、例えるなら歩兵と騎兵である。騎兵はただ馬に乗った歩兵ではないし、武器を持った御者でもない。上心の目指す境地は“人馬一体”である。

 

序盤であいうえお作文の制約について書いたが、あいうえお作文も含む文芸一般についても当然制約を考えることができる。無論私は文学の何たるかを語れる分際では到底ないが、それとは思うに、普遍的で抽象的なものである言葉でしか表現できないことである。それがそうなら、書かれた言葉による表現における成功とは、読む人に全く個人的な感動を引き起こすことであると言える。それは感動というより、戦慄と言うべきかもしれない。

求められているのは、というより、私が求めているのは多分、感動ではなくて聖性なのだ。私は感動させられたくないし、感動しにいきたくないとも思っている。感動をもたらすものは思うに記号であり意味である。聖性は、記号が崩壊し意味が溶解したところに忽然と生じる。

 

 

 

 



 

な:なごり雪も 降るときを知り
ご:ゴミ山のアミーゴにアッパーカット
や:やけのやんぱちでパッチワーク
だ:出し抜けに死ぬ気でダンス
い:一世一代の大ダンス
が:ガラムマサラを入れ過ぎた 季節の後で
く:腐りゆくあなたに 贈る言葉

 

 

 

野菜ジュースの売り文句みたいなことを言うと、ここまでで実質的に平均的なブログ13本分の文章を書いている。もうやめたい。それでも、ここにきてようやく書き終える糸口を、資格を、妥協点を得られた感触がある。一応言っておきたいのは、この記事を書き始めた時点では、この文章全体の七分の一も念頭にはなかったということだ。ブログが長文化して一番苦しんでいるのも、完成したこの記事を一番読ませたいのも、記事のオチを一番知りたがっているのも、すべて他ならぬ私である。

 

それはさておき、ここまでの文章でモゴモゴ喋ってきたことに従うと、名古屋大学、もとい東山キャンパスとあいうえお作文には、以下に示す二つの捉え方、形態、相があると言えるだろう。

一つは、「空虚な中心を持つ閉じた空間」という相である。空虚な中心とは、東山キャンパスにおける豊田講堂であり、あいうえお作文における縦読みである。ともにそれなくしては全体が成り立たない最重要要素でありながら、それ自体は全体を規定していない。本質ならざる本質であり、無でもある。

もう一つは、「人と人/もの/ことの間に生じる現象」という相である。東山キャンパスは、一つの見方として、人々や物事のノイジーな、つまり自由な活動によって東山キャンパス化された空間なのだった。あいうえお作文も、作者と“霊感の源泉”との間の交渉によって生み出されるものだった。

この二相は、それぞれ東山キャンパス/あいうえお作文を「読む」ときと「書く」ときの際の相であるだろう。そしてこの両者の関係であるが、後者の相は前者の相における「空虚な中心」の座を我々が奪取した相、つまりそれを手ずから再構築した相であろう。

この相転移には二つの経路があると思う。第一の経路は、キャンパス/作文に即して言えば「キャンパスの中の私」「あいうえお作文風ポエム」を考えていくそれであり、三人称的なスタンスから出発するものである。第二は、これの対極にあたるが、言ってみれば一人称的なスタンスから「私の中のキャンパス」「ポエム風あいうえお作文」を考えていく経路である。そしてこれらの方途において、前者では「私」および「ポエム」が、後者では「キャンパス」および「ポエム風」が消去・再創造されることで、二人称的な状態、「キャンパスと私」「あいうえお作文(とポエム/ポエジー)」を考える段階に至れるのではないか。あくまで概念先行の仮説的な見立てでしかないが。

 

一旦話が逸れるが、私は(「い」の項で触れた)コラム記事「名古屋大学の正面」を、かつて自分がいた部活の同級生の何気ない発言「名大の校章の図案化された”NU”は、論理記号の∩∪(かつ/または)とも読める」の引用で締めくくった。その意図は、東山キャンパスが境界・包摂というような概念と密接に関係していることを言うためであったが、2年後である現在より重要なのは、それが名古屋大学なるものの非実体性、現象性を示唆していることである。常に何かと何かの媒介項である名大とは、境界の内部ではなく、境界自体であり、さらには境界を生成するシステムなのだと言える。

そのような境界的な存在を、に例えてみてもいいだろう。窓は屋内と屋外の境界であり、窓のある部屋の住人は窓にアクセスすることで(しさえすれば)、光、風、風景などに恵まれる。すなわち外界と交流することができる。この比喩において住人とは私であり、あるいは私みたいな誰かである。

 

しかし窓とは、ありふれたモチーフであるにも関わらず(あるいはそのゆえに)、素人が安易に一概に語れる代物ではないらしい(が、安易に一概に語らないと記事が終わらない)。日本語の「まど」の語源について取り上げただけでも数多くの異説があり、その多様なコンテクストが垣間見える。一般に流布している説としては、日本家屋における柱と柱の間に取り付けられた襖や障子(戸)を「間戸」と呼んだ説、あるいは「目+戸」に由来するという説の二つが有力であるようだ*7。一方、外国語に目を向けると、脚注二番目のサイトにべらぼうに詳しいが、各国語の「窓」には語源的に「穴」のような意味を持つものが多いという。それはなにより漢字の「窓」が(穴冠を頂いているように)まずそうである。実際、西洋の主流であった石造建築において、窓とは第一に壁に穿たれた穴だった。

やや軽率のきらいがあるが、この「まど」と「」の二つの在り方は、東山キャンパスとあいうえお作文の二つの相にそれぞれ通じるものを見いだすことができそうである。

読むときの相は「窓」の在り方に近い。そして、2年前の「∩∪」解釈にも近い。窓は繰り返すように壁に穿たれた穴であり、壁の欠如である。そして、定点からの風景を部屋に取り込む器のようなものでもある。

対する「まど」は書くときの相である。「間戸」の解釈を採用する場合、まどにおいて壁ははじめからない。まどは境界でありながら、人の働きかけに随って境界を変化させる装置である。それはもっと言えば、その操作を通じて部屋自体に干渉する装置でもある。

 

窓について、もう少しだけ思うところがある。

окно は、ロシア語で「窓」を意味する中性名詞の単数主格である(私は第二外国語でロシア語を選択した。そのせいでシベリアみたいな学生生活を送ることになった)。ロシア語ではアクセントのないoはаのような音で読むので、語末のoにアクセントがあるこの単語の読みは a-k-n-o(アクノー)となる。

この名詞の単数生格は、語末のoがaに変化した окна であるが、曲用と同時にアクセントが語頭に移動するので、読みは o-k-n-a(オークナ)になる。そしてこの形と読みは複数主格と全く同じである。

生格の基本的な意味は、他言語の属格・所有格や日本語の「~の」に概ね相当し、окна は「窓の」という意味になる。また生格には、生格形の名詞の意味するところのものが存在しないことを言う「否定生格」と呼ばれる用法もある。

oで終わる中性名詞の複数生格は語末の母音が落ちる。しかしокноの場合、出没母音と呼ばれる母音が2つの子音の間に生じ、その形は окон、読みは o-k-a-n(オーカン)となる。

 

さて、単数主格である окно が単数生格へ変化するとき、発音においてはaとoが反転していた。

主格が生格(「窓の」)に変化するということを、個別具体的で実体的なあいうえお作文の次元から、“あいうえお作文的であること”についての思考の次元へ移るという意味にとってもよいだろう。aとoを、あいうえお作文の「」から「」への流れ、すなわちあいうえお作文の動機・原理から完成形までの過程と理解するとき、aとoの転倒した生格形は、作文の考察から導かれたそれを生み出す構造を意味する。

そしてこの単数生格は複数主格と同形である。あいうえお作文について考えられていたことが、名古屋大学をはじめとしたさまざまなものについてもある水準で妥当する。

残るkとnだが、単数主格においてaとoの間に並んでいるこれらは、あいうえお作文的なものの生まれるプロセスを表わしていると解釈するのが穏当だ。そして複数生格では、この記事がそれを道破したいところのaがそれらの間に来ている。その意味するところはすなわち、あいうえお作文的なものが生成される瞬間にのみ開示する、その核心である。主張ははじめから変わらない。本源的なものはその生成の瞬間にだけ瞬き閃く(余談ながら、окно は語源を辿るとラテン語のoculus「目」であるらしい*8)。生成し、生成し続けるしかないということだ。

 

 

などという牽強付会大会を万が一鵜呑みにするようなら、速やかにインターネットを辞めて筋トレとか資格勉強とかした方がいい。SNSを辞めてグループディスカッションとか面接の練習とかした方がいい。そうやって資格試験検定1級を取得して、株式会社グループディスカッションに入社した方がいい。反対に私の所論に文句があるなら、それでもやっぱりネットを辞めて資格試験検定1級を取得し、(株)グループディスカッションに入社した方がいい。

 

お前が辞めろ!!大学を!!と思ったら、「3」をダイヤルしてください。さよなら、さよなら、さよなら。

 

コラ!コラ!コラ!

 

 

小人閑居して野弧禅を為す

 

とにかく、ともかくも、あいうえお作文がなんかスゴいらしいというのは分かった。それで結局、結局のところ、あいうえお作文は私を救うんですか。どうなんですか。あいうえお作文に、功徳は有るんですか。無いんですか。

無!

あいうえお作文は環状線に進入してしまった。もし終点を求めているなら、別の路線に乗り換えるしかないだろう。でもそもそも、俺はここがゴールだと思って来たのに。ここを出たら、もうどこへ行けばいいか分からない。

そして終わりのない悲しみ。

 

あてどなき旅、はてしなき旅路、よるべなき魂

情けなし やるせなけれど 死にたくも無し   六無斎

 

じゃあ、あいうえお作文なんかやったところで仕方ないのか。

中島敦の『名人伝』に、「至言は言を去る」という言葉が出てくる。それは本当か。あいうえお作文を極めていくと、どこかでついにあいうえお作文ではなくなるというのか。

しかし、大凡人の小生に言わせてもらえば、至至言は言を去るを去るだろう。あいうえお作文に「突破」などない。結局我々はあいうえお作文に帰ってこなければならない。帰ってこなければならないはずだ。いや、でもそれがアリなら、至至至言は言を去るを去るを去るのか。とすれば、至至至至言は言を去るを去るを去るを去る。そして至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るをを去る去るを去るを去るを去るを去るを去る。至至至至至至至至至至至至至言は言を去るを去るを去るを去るを去るをを去る去るを去るを去るを去るを去るを去るを去る。至死死死死死死死死死死死死死......

 

 

死ね!

何を書いても言い訳だ。でも、言い訳ではないらしい全ての文章は実のところ、言い訳に失敗しているだけなのだ。すみませんもありがとうも言えないから、私には正拳突きしか残されてない。

 

逃げてるのか追ってるのか分からない深夜名古屋大学前交差点に時速120km/hで突入する暴走族の感動興奮人類愛の絶叫が、東海国立大学機構プラットフォームに建材を運び込む大型トレーラーの素っ頓狂なクラクションに呑まれて消える、その刹那の、静寂ならぬ静寂。

砂漠みたいなハイビームの中で、輩は胎教で聞いたモーツァルトのレクイエムの続きを聞く。

 

あの街に続いてる気がする。

登坂車線に張り付いた太陽がオービスを焼き殺す。

携帯灰皿で通話する暗殺された社会党党首。

コンバインがひいおじいちゃんの甕棺墓を轢いて、16両編成の猫が黒鍵を疾走する。しゃもじが白鍵をひっくり返す。象を有象と無象とに鑑別していると、ブルペンから姓名判断士の絶叫。二塁にいつの間にか測量士がいて、シャベルで電話線を掘り出している。

交流電源に接続された鹿威しが道路交通法を攪乱する。思考が速すぎて、ドライバーはおばあちゃんを避けれなかった。

 

あの街に続いてる気がする。

ブッポウソウBPMで三隣亡のバーゲンセール。3秒後に母が閉経。

車いすのムカデが期限切れのカタログギフトに忍び込む。

ジャムおじさんが丹精込めて蒸した赤飯はほんとうに不味くて、すりガラスの向こうで悪魔が踊っていた。急いでいたキリストはレーズンパンで最後の晩餐を済ませた。顔面蒼白して震えているフードファイターがテレビ局に吸い込まれていった。

かつてダムだったこの村では、民芸品がおばあちゃんを売ってる。生前にこの村を訪れたウォルト・ディズニーは、通りすがりの鹿に論破されてそこの用水路で嘔吐した。

聞いたことない役でロンされて、銀行預金と万国旗を嘔吐した。

PCのディスプレイに映った女にキスしようと顔を近づけたら、無数に敷き詰められた剥き出しの原色に光るピクセルが目に飛び込んできて、気持ち悪くなって、青年は16年前の誕生日に食べたケーキをもどした。首のないサンタクロースの砂糖菓子も混じっていた。

ホープの空箱にエスパー伊東は何人入りますか?

 

あの街に続いてる気がする。

歯。

白夜に日食。

プラネタリウムの原腸陥入。

大学病院のロータリーを抜け出せない光。

ステルスヌーの大群がサインポールの回転に巻き込まれて、スクリーンにカラーバーを映し出す。クラクションを溜めて撃ち返す。

パルクールみたいなカポエイラみたいなセパタクローみたいな囲碁の通信講座で、碁盤にz軸を突き刺してAMラジオで聞く六大学野球早慶戦。早稲田の4番は腕が多すぎて失格になった。

FAXで小指が送られてくる。ワープロソフトがパソコンから逃走する。

21世紀初頭の技術躍進を背景に、量子骨相学は数理神話工学と離散的神経水文学の手法を弁証法的に導入にして幻視核物理学へと発展した。骸経済学的還元によって、ゴルゴ松本の命は未知の拡張子を与えられて不可逆的にヒエログリフに変換される。何万台もの電動集密書架が列を成して、琥珀色の海へ帰っていく。

こんにちは語で「こんにちは」

ウィッカーマンが蒸留するウォッカ。木馬に潜むインチキおじさん。モケーレムベンベ討伐隊。無回転竹とんぼが空に消える。空色の小爆発。

テーブルの上に戸籍謄本と錆びたペンチがある。小一時間前に臍の緒を注文したが、音アレルギーのウェイターは復唱ができなくて、まだ私の前でわなわな震えている。発疹が床に伝染し始める。狂人病の犬がナイフを貸してくれた。

電子レンジの中でゆっくり回るゆで卵の中から聞こえる、非可聴域高周波の逆再生玉音放送

苦しそうなバルブが、不意に笑った。

 

 

 

 

 

 

 

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