大将、解釈一丁!
あいよ
「水引は風」
そうかな
組織には標語が、さもなくばポエムがないといけないらしい。それはそうかもしれない。今や草花やカクテルですら自分の言葉を持っているのだし、組織でなくても個人の段階でもう言葉を、つまりは座右の銘を持っている人だって結構いる。私にも座右の銘がある。私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘は「私の座右の銘はない。座右の銘ってなんか不愉快だ。座右の銘とか言って、お前が勝手に“銘”の左に座り込んでるだけだろ、何を偉そうに!
それはそうと...
頭よさそう笑
どゆこと?
「真理の森」とは、真理が潜んでいるような森のことだろうか。あるいは、全体が真理であるような森なのだろうか。つまり、「真理の森」の「の」は、例えば「どうぶつの森」というときの「の」なのか、「針葉樹の森」というときの「の」なのか。
また、「真理の森」と「人間の本質を探る」の関係はどうなっているのだろう。具体的には前後関係だ。つまり、「人間の本質を探ると、真理の森へ至る」と「真理の森へ行って、そこで人間の本質を探る」の2通りの理解があり得るのではないか。
ということは少なくとも、
「人間の本質を探ると、真理が潜む森へ至る」...(11)
「人間の本質を探ると、真理からなる森へ至る」...(01)
「真理が潜む森へ行って、人間の本質を探る」...(10)
「真理からなる森へ行って、人間の本質を探る」...(00)
の4解釈が存在するようだ。図にするとこうなる。
各解釈の違いはまず、そこから導かれる「人間の本質」と「真理(の森)」の関係の違いになる。
(11)では本質探究に取り組んでようやく真理発見の資格を得るに過ぎないということなので、「人間の本質<真理」(真理はより高次)という前提が透けて見える。
(10)(01)では、「人間の本質≓真理の森/真理」が前提となっているように思われる。
(00)では既に真理の森に到達した上で人間の本質を探っているので、「人間の本質>真理の森」が前提になっている。
既に解釈分岐はそこそこ複雑だが、それは「人文学の最先端へ」の意味にも当然影響してくる。
まずこれ単体で考えただけでも、「人文学の最先端へ」が「(共に)行きましょう!(Let us)」なのか「来ませんか?(Won't you)」なのかで、名古屋大学人文学研究科が「人文学の最先端」にいるのかいないのかが変わってくる。
そして、「人文学の最先端」がどこなのかも複数解釈が可能だろう。「人文学の最先端」が研究成果のことを指しているなら、「人文学の最先端」=「真理の森」であろうし、研究活動のことを指しているなら、「人文学の最先端」=「『人間の本質を探る 』こと」となる。
改めて全部で2択*4の全16の解釈を書き出してみると、
1111:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは真理が潜む森のことである。人間の本質を探ると、その真理が潜む森へ至る。
1110:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは真理が潜む森のことである。その真理が潜む森へ行って、人間の本質を探る。
1101:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは真理からなる森のことである。人間の本質を探ると、その真理からなる森へ至る。
1100:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは真理からなる森のことである。その真理からなる森へ行って、人間の本質を探る。
1011:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。人間の本質を探ると、真理が潜む森へ至る。
1010:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。真理が潜む森へ行って、人間の本質を探る。
1001:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。人間の本質を探ると、真理からなる森へ至る。
1000:人文学研究科は人文学の最先端にいて、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。真理からなる森へ行って、人間の本質を探る。
0111:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは真理が潜む森のことである。人間の本質を探ると、その真理が潜む森へ至る。
0110:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは真理が潜む森のことである。その真理が潜む森へ行って、人間の本質を探る。
0101:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは真理からなる森のことである。人間の本質を探ると、その真理からなる森へ至る。
0100:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは真理からなる森のことである。その真理からなる森へ行って、人間の本質を探る。
0011:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。人間の本質を探ると、真理が潜む森へ至る。
0010:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。真理が潜む森へ行って、人間の本質を探る。
0001:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。人間の本質を探ると、真理からなる森へ至る。
0000:人文学研究科は人文学の最先端にはおらず、その人文学の最先端とは人間の本質を探る活動のことである。真理からなる森へ行って、人間の本質を探る。
一番悲惨なのは、0011の解釈だろう。真理にたどり着くためにはまず真理のある森へたどり着かねばならず、そのためには人間の本質の探究活動に取りかからねばならないが、名古屋大学人文学研究科はその途についてすらない。遙かなるかな真理。無力なるかな人類。ましてや工学だの法学だのを勉強している皆さんは、もうおしまいです。
個人的には1010の解釈に好感が持てる。悠々と人間の本質を探っていたらうっかり真理と出会うかもしれない、みたいな感じが良い。
それで結局、名古屋大学人文学研究科はどこにいるんだ。名古屋大学人文学研究科が語りかけている俺はどこにいるんだ。さては、ここはもう森なのか。詭弁の森。