大学生の自由帳

ペンギンパニックとエノキ工場の香り

あいうえおくの細道

 去る7月29日、あいうえおくの細道が挙行されました。

 

 まず私がこの会を挙行しようと思ったのは、名大祭の「あまつかぜあいうえお作文コンテスト」を見て刺激を受けたからです。

 

nujiyucho.hatenablog.com

 

 大分やべーコンテストでした。今でも幻だったんじゃないかと思っています。幻過ぎて蜃気楼が見えちゃったとかそんなことはどうでもいいんですが、とにかくあいうえお作文をやらなければならないという使命に駆られた私はあいうえお作文強化の旅の挙行を提案しました。

 

 

 あいうえおくの細道

 

 この電撃の一言により、あいうえお作文と松尾芭蕉という人類史上初めての掛け合わせがここに誕生しました。

 そして色々あって、手始めに名大とその周辺を歩きその折々でテーマを見つけてあいうえお作文を作っていくという話の流れになりました。


ファミリーマート(名大内にある)→鏡が池→福原公園→伊勝小学校

 

の順番です。

 

そうして、松尾芭蕉よろしく道中で作文を作っていく、やけに詫び寂ある会が挙行されたというわけです。

 

ファミマ篇

鏡が池篇

福原公園篇

盆踊り篇

 

 

ファミマ篇

一つ目の作文(安田の作文)*1

 

【企画者評】
 一つ目からエッジの効いた、いや効きすぎた作文の登場です。正直言って講評不能です。ただ、「あいうえお作文をしてください」と言われてこの語彙の組み合わせを瞬発的に出すことができるのはある意味才能だと思います。後からボディブローのようにじわじわとその語彙の奇抜さを強制的に追体験させる遅効性の作文です。
 これは恐らく本人も何も考えていないので、ここで「ふぁっきんって何?」「マーシーが創った世界って何?」などの議論をすることはもはや意味をなさないのではないでしょうか。このような作文は非常に感覚的なので、要は心に刺さるか刺さらないかです。心に刺さる場合は感想が湧き出て来るし、心に刺さらない場合は死ぬだけです。語のバランス感覚、語感へのバランスを雰囲気で感じ取る作文だと思います。センス一本勝負という感じですね。
 ただこの作文に関しては「語を並べただけ」みたいになっているのが少し惜しい気がします。

 

【関係者評】
・「マーシー」は少年で、「ふぁっきん みみくそ大魔神」は「マーシー」の空想の産物であり被造物だと私は思っていますが、とすれば、幼稚で無邪気な(そして若干攻撃的な)1、2行目の後に来る3行目で急に引きの描写になり、考えようにによっては(コース料理の料理名のような体裁をとって)それを商品化しているあたりは“少年の視点の離脱”であり、そこに複層性が生じています。 特に「春風」において、少年の無垢さや空想の豊かさ(、およびその儚さ)が想起されるともに、それを相対化し、そのような愛すべき幼さを(料理を前にした客のように)見つめている別の視点の存在を思わせます。それが飽くまで添えられているだけということも、この微妙な哀愁に寄与しているかもしれません。 また意味を離れても、「〜春風を添えて〜」は作文の力みを劇的に緩和していて気持ちがいいです。「ふぁっきん みみくそ大魔神」も、一時代前のアニメのタイトルコールみたいな響きでワクワクします。「とんかつDJアゲ太郎」「逆転満塁ホームラン」みたいでもあるかも。

 

・「ふぁ」だったらどうしても使いたい単語ですね。

 

 

二つ目の作文(藤田の作文)

 

【企画者評】
 この作文は、まず一行目の「ファーーーーーーーー」でこちら側の意識を持っていきつつ、次の行でそれがミケランジェロ・アントンオーニの絶叫であると判明、そして最後は彼の死によって締めくくられているという構成です。これはシュルレアリスム的な世界観ととるかギャグマンガととるかで議論が分かれる気がしますが、私はギャグマンガっぽいなと勝手に感じています。そして、ここはミケランジェロ・アントンオーニが効いていますね。どうやらミケランジェロ・ブオナローティの間違いだったようですが、いずれにせよ凄い人で、そんな凄い人の遺言が「ファーーーーーーー」であるというギャップがこの作文の最大の特徴であり、魅力をもたらしているものだと思います。恐らく、この作文の最大の良さは事細かに散りばめられたギャップ性でしょう。まず一つ目に、先ほども挙げたミケランジェロという偉人と「ファーーーーーー」というふざけた叫び声のギャップ、二つ目にミケランジェロという偉人とマカロニグラタンという割と家庭的な食べ物のギャップ、三つ目に「絶叫」「溺死」というシリアスな言葉とは対照的な冒頭の遺言。様々な角度からギャップ性を見出すことができ、それらが絶妙なバランスで構成されています。相当練られた世界観です。よくぞここまであいうえお作文で惜しげもなく文学性を披露できるものだと感心します。

 

【関係者評】
・あり得ないミスが発覚しました。ミケランジェロ・アントニオーニは20世紀の映画監督で、書きたかったのはミケランジェロ・ブオナローティです。

・ファの使い方が大変参考になります、面白すぎる

 

 

三つ目の作文(ゆおの作文)

 

【企画者評】
 
これは私の作文です。自分の家族の事を「ファミリー」と呼ぶのはアメリカのストリート感があり、その治安の悪い雰囲気がこの作文全体に漂うジャンキーさを規定しています。「みんな死ぬしかない」「ぶん殴ることだけが生きがい」などのジャンキーさを補足するような語彙が散らばる中に「マラカスみたいな親父」というひょうきんなワードを入れることで、意図的に統一感を崩しギャップを生み出しています。このようなある程度雰囲気が固まっている中にそれを裏切るような一言を入れる「ギャップ性」を主題としている作文が後にもうひと作品あります。

 

【関係者評】
十六銀行のキャラクター「たまるンバブラザーズ」を彷彿とさせました。 独特の陽気な空気感の家族に対して(思うに気恥ずかしさから)反抗的な態度を取りながらも、父の死に際して結局家族を憎みきれない自分を発見してしまう倅の話だと思いました。 家族を「ファミリー」と呼ぶ謎の慣例が存在する謎の家族であるということが1行目で明かされているので、「マラカスみたいな親父」という謎の(しかし効果的な)存在が文中でピタッと来ています。一方で、「マラカス」と「死」という語の組み合わせはなんとなく中南米を思わせ、「ファミリー」をピタッとさせている気がします。そういうバランス感が全体に充溢しています。 僅かながら小言を言うと、1行目の滑り出しと縦読みが微妙に被っており(「ファミリー」)、あいうえお作文的には模範的ではないかもしれません。ですが、そんなのは些末な問題です。

 

・芳しい残り香が広がりますね

 

 

四つ目の作品(二ツ島の作文)

 

【企画者評】
 
雰囲気づくりが非常に上手いと感じました。
 この作文はただファイルの中に存在する文章が書かれているだけです。それ以上でも以下でもないので作文自体は非常にシンプルにまとまっています。文章の内容も、「ミルクを足すときは回し入れること」とありますが、何にミルクを入れるのかなどは書かれていません。しかし、あえてそこを書かないことで受け手の想像の幅が広がり、簡素なように見えて奥行きのある作文に仕上がっているのだと思います。ミロのヴィーナスは両腕がないゆえに魅力的であるという評論を昔読んだことがありますが、それと似たものを感じました。
 完成され尽くした作文であると思います。一点の曇りもなく清潔だという印象を受けました。

 

【関係者評】
・ささやかなインストラクションが書かれたファイルブックの断片と覚しき文章であり、ただそれでしかありません。ですが、これがあいうえお作文として、つまりは何かしらの効果を狙ったものとして提出されているために、我々はそれ以上を読むことを半ば強いられますが、そうすると例えば、この前後のファイル、ファイルブック全体、これを参照する人、そのある場所、なぜこのページなのか、回しいれないとどうなるのか...と奥行きがいくらでも開けてきます。 この作文は、文章自体は起承転結も緩急もなく至って平板です。ストーリーやユーモアの類いはありません。それにも関わらず妙に趣があるのは蓋し、この作文では画布上の絵の具の模様ではなく、画布自体が問題になっているからです(しかしそれは、質素で謙虚だが無趣味ではない絵の具の振る舞いにも多くを負っています)。 あいうえお作文という形式はストーリー・展開・場面転換を表現するのに適していますが、その形式で静的な描写を行うことで、新しい次元のストーリー・展開が表現されているのかもしれません。 こういう芸当はできない人には本当にできないと思いますし、安易な模倣は致命傷になりかねないと思います。

・負けました。全てに。

 

鏡が池篇

 お次は鏡が池篇です。池を見ながら作文を作っていたので、どことなく風流を感じました。いちばんおくの細道に近かったかもしれません。

 

一つ目の作文(ゆおの作文)

 

【企画者評】
 まず冒頭の「カラスしかいない街」で場所を指し示しています。
 カラスしかいない街、というのはプラスかマイナスかで言ったらマイナスのイメージです。どこか冷たく不穏な街であることが想像されます。
 「ガミガミうるせえババアもいねえ」は、そんなカラスしかいない街に住まう、この作文の主人公が吐き捨てるように言った一言です。この街はさきほど述べたように冷たく不穏、もっと言えば治安が悪いです(ファミマでの作文に続き治安が悪い場所が舞台である)。この作文の主人公はそんな街で生まれ育ちました。そんな街で育ってしまえば、心が荒むのも当然です。彼はまだ思春期で、誰かに構って欲しいんだけれどもそれを上手く言葉に表すことができないのです。それはもちろん彼の性格もあるでしょうが、恐らく親の愛をきちんと受取れなかったのもあるのではないでしょうか。つまり、「ガミガミうるせえババアもいねえ」の真意は、十分に愛情を受け取ることができなかった少年が自分を構ってくれる人を心の底では欲していて、でもそんな寂しさを暴力的な言葉でしか言い表すことができないという悲しさを孕んだセリフだと解釈できます。尾崎豊の「夜の校舎窓ガラス壊してまわった」の心理と似たものがあるでしょう。

 そして、「ガミガミうるせえババアもいねえ」で一旦話が完全に終わり、「ガミガミうるせえババアもいねえ」という台詞を吐き出した彼が死んでから5年後くらいの世界にカットが切り替わると考えてください。そして、「ミカルゲだって生きているガラスのような水面」を眺めながら「今はもういないけれど」と呟く、生前彼と親しかった少女がそこにはいます。当然「今はもういない」のは誰かと言えば、先ほど述べた少年です。少女は、生前の彼との交流を思い出しながらしみじみとこのセリフを呟くのです。そして、彼女の目に映る景色は、「それでも鮮やか」だったのです。彼が死んでもなお。

 正直作文を作った時はここまできちんとストーリーを練れていないですし、これだけのストーリーを想像させるにはあまりにも言葉が足りていなさすぎるので怪文書という指摘は真っ当です。

 

【関係者評】
改めて読んでみたらふつうに怪文書でした。カラス、ババア、ミカルゲ、池(?)のどれに注目して読もうとしても他の要素が物語の形成を阻止してきますが、「愛すべき俗なカオスと憂いをたたえたコスモス」みたいな情緒は地味に作文を貫いていますし、動(騒)→静という傾向も一応存在しています。 あいうえお作文においてストーリーとか論理性みたいなものはあくまで任意成文と考えるべきかもしれません。 これを意図的にしようとするなら、多分「自分の文章」みたいなものがある人でないとできないんだろうなと思います。

・急なミカルゲで、世界観がガラッと変わって大変面白い

 

 

二つ目(安田の作文)

 

【企画者評】
 これは、完全に笑いに特化した作文ですね。普通に面白いです。「ガッ」がポイントだと思います。これはホワイトボード上では(おくの細道を実施した際はホワイトボードに作文を書いていました)これ、ホワイトボードに書かれている感じだと、「ガッ」が太字になっているんですよ。これは発明だと思います。さすが名芸生、デザイン方面のセンスがあります。あと「蹴り殺してやる!(ふんづけてやる!)」について、「蹴り殺してやる!」がピーコで、「ふんづけてやる!」がおすぎらしいです。面白すぎる。「いけしゃあしゃあと…」までは割とシリアス展開なのですが、「蹴り殺してやる!(ふんづけてやる!)」で急にお笑い展開になるもっていき方が才能アリといったところでしょうか。

 

【関係者評】
1,2行目といい、6行目の(ふんづけてやる!)といい、テクニカルなバランシングを感じます。特に1,2行目は、常人ならつい各行のイニシャルにつられて作文に意味を詰め込み過ぎてしまいがちなところを、オノマトペによってこれを回避しつつ(文章とは別路線の)時間的・空間的な遠近感を醸してもいて、紛うことなき技術です。 安田さんの剛速球に紛れてしれっとスライダーを投げてくる感じ、なかなか怖いです。

・おすぎとピーコだね。人生かも。

 

 

三つ目(ゆおの作文)

 

【企画者評】
 「から紅の静寂に」は自分の中ではサンダンカがいっぱいに敷き詰められている静かな空間というイメージでしたが、少々分かりにくかったかもしれません。そこら辺は置いとくにしてもストーリーは割と分かりやすいと思います。そのためストーリーについては特に説明はしません。

 この作文で一つ考えるべきところは「ガランドの声が響く」だと思います。
 サンダンカが地面一面に広がる宮古島の静かな空間。そこには誰もおらず、命あるものの音は何もありません。ただ、波のさざめき、風の揺らぎの声があるだけです。
 ここで言う「ガランド」とは何でしょうか。自然豊かな静寂の中にわあわあと声が響いているわけですが、この作文の中に出てくる声を発し得る主体は携帯奴隷しかいませんので、「ガランドの声」とは携帯奴隷たちの声です。ガランド(空虚)とは、その携帯奴隷たちの頭の中の空っぽさを皮肉っているのです。これは、皮肉の作文です。携帯奴隷を徹底的に馬鹿にしているのです。
 

【関係者評】
「頑張ってるね」と澄ました感じで皮肉っぽく言おうとするも、結局不快感を抑えられずに「携帯奴隷がよ」とふつうに悪口を言ってるのが人間臭くて良いです。詩的な情景描写、皮肉、罵倒と段階的にキレイじゃなくなっていくのに、安心と共感を覚えます。

・この落差。オチまでの温度差。まいったね。大拍手。拍手喝采。勝ちか負けだったら負けだよ。

 

糞の始末篇

 「糞の始末篇」という人類史上初めてなんじゃないかという「篇」です。糞の始末は大切です。このあいうえお作文は、即興ということをテーマにやったので、各々悔いが残る点もあったりなかったりかもしれません。

 

 

一つ目(安田の作文)

 

【企画者評】
 一読では理解が追い付きませんでした。恐らく主人公が何かミスをして罵倒され、始末書を書かされる羽目になったのでしょう。そして、主人公を罵倒し、始末書を書かした人物こそ松林および「あの女」なのです。しかも「あの女」に至っては罵ってなお悪態までついてくるので主人公としてはたまったものではありません。そういう心情の作文でしょう。
 一行目で語られているのは、この作文の主人公の「憤慨している」という心情です。一行目に感情の描写を挿入することで、これが一人称視点の作文であることが一発で分かります。あいうえお作文には三人称視点のもの、一人称視点のもの、語彙を羅列してあるものなど色々ありますが、これはその中でも一人称視点の作文ということになります。
 
 この作文で一番意味が通らないのは「ののしられたポップの味」です。私は語感が非常に好きなのですが、改めて解釈しろと言われるとできかねます。そもそもこれは「ポップな味」ではなく「ポップの味」なので、この「ポップ」というのは味の形容ではなく一つの独立した名詞ということになりますが、名詞で使われる「ポップ」は基本的にポップスの略称くらいしかないと思います。ではどうしてここでポップスなんて言葉が出てくるんだという話になりますがそこはもう触れない方がいい気がします。ここは語彙の選択の面白さを雰囲気で楽しむところであり、正直解釈することが野暮です。解釈しようとしすぎると頭が壊れてしまうし、楽しければそれでいいんじゃないでしょうか。

 

【関係者評】
雰囲気を言葉にできませんでした。自分の怠慢ですが。

・うーん、マーベラス

 

 

二つ目(藤田の作文)

 

【企画者評】
 
この作文は講評する際に小一時間考えてしまいました。一つ思ったのは、「しまつ」の三行については誤読を生みかねないという気がします。自分の読解力がなさすぎるだけですが。
 まずこれは機関銃「斉射」と言っているので、機関銃を撃っているのが一人ではないと考えられ、「死ね浜田雅功」「松本人志はうまくやったよ」「次はお前だ東野幸治」と言っている(あるいは心の中で呟いている)主体(以下、殺戮者)はその中の内の一人ということになります。
 誤読を生みやすいというのは、「次はお前だ東野幸治」の扱いです。
 一度「次はお前だ東野幸治」に至るまでの状況を整理します。
 まず松本は分かりやすいです。「うまくやったよ」は過去形なので殺戮者と対峙した後だということが分かります。殺戮者の回想という感じですね。次に浜田ですが、「死ね浜田雅功」は殺戮者のセリフ(もしくは口に出さず頭の中で呟いているだけ)だと思われるので、今まさに目の前で対峙してしていると考えるのが妥当です。
 そして問題の東野幸治の話に移ります。先ほど述べたように殺戮者は今まさに浜田と対峙しているわけです。しかし、「次はお前だ東野幸治」は目の前にいる東野に向けられているもののように思えます。とすると、状況としては殺戮者対浜田東野になるわけですが、それにしてはセリフがチグハグですよね。「死ね浜田雅功」と言いながら同時に「次はお前だ」と話しかけるというのはあまり現実的ではありません。これが例えば機関銃ではなく単発のピストル、そして斉射ではなく発射(つまり殺戮者が複数人ではなく一人)だったら、「死ね浜田雅功」というセリフを呟いた後に浜田雅功を射殺、隣にいる東野に「次はお前だ東野幸治」と言いながら銃を向ける、などというストーリーも考えられますが、機関銃をのべつまくなしに発射しているとなるとそうもいきません。
 ここで発想を変えてみましょう。東野はその場におらず、浜田に向かって機関銃を斉射しながら次の標的である東野の事を思い浮かべ「次はお前だぜ……」と考えている殺戮者と解釈するとつじつまが合います。私が先ほど「誤読」と言ったのは、東野がその場にいて殺戮者対浜田東野の構図ができていると考えることです。このような解釈違いが発生する可能性があるなと感じました。
 ちなみに、この機関銃を斉射しているのは、一体誰なんでしょう。松竹所属の芸人でしょうか。個人的には全く関係ない一般人だったら面白いです。

 

【関係者評】
松本人志はもういない」の方が良かったなと、ここ数日ずっと思ってます

・ごっつええを思い出したと同時に、よく見れば見るほど松本人志の功績が気になるところ

 

 

三つ目の作文(ゆおの作文)


【企画者評】
 私の作文です。即興故の無味乾燥とした作文すぎて、私がドラえもんに出てくる神成さんだったら野々原慎吾をぼこぼこにしているところでした。本当に、このあいうえお作文は字面以上の情報を求めたいという気にならない駄文です。読みたくない。「野々原慎吾」とかいう名前のやつがふんどし締めるんじゃないよ。

【関係者評】
妙な技術を体得した謎の一般人の名前を言うためだけに2/5行を割いているのが良いです。こういう図々しい無意味、ふてぶてしい無意味が千種区には足りません。

・野々原慎吾もこの時代を生きてると思うと涙が止まらない。

 

 

四つ目(二ツ島の作文)

 

【企画者評】
 
「まぶしいくらい罪深い」という形容に凄まじいセンスを感じました。「罪深い」という単語にはネガティブなイメージが付きまといますが、「まぶしい」というのは光を感じさせるためどちらかと言うとポジティブなイメージです。ポジティブ要素のある語がネガティブな語を修飾するというのは下手にやると矛盾が強く感じられ失敗しやすいと思います。これが「まぶしいくらいに寂しい」などであったら失敗になるでしょう。一方で「まぶしいくらい罪深い」が成功しているのは、罪深い、つまり背徳的であるという意味の言葉のもつ妖艶さゆえな気がします。背徳的であるというのは確かに悪いことですが、同時に非常に魅力的でもあります。だからこそ、「罪深い」は冒頭で述べたようにネガティブなイメージが付きまといますが、ネガティブとも言い切れない微妙な語であるゆえうまいことマッチしているのではないでしょうか。
 また、キャリアカーが罪深いという発想も素直に面白いと感じました。これは私の解釈ですが、車が車を運ぶという状況は人は人を裁く権利があるのかという問いと似たところがあり、どことなく反道徳性を感じます。

【関係者評】

・「まぶしいくらい罪深い」、車を形容する言葉としてこれに優るものを今のところ知りません。殺生鉄塊がさも当然の権利であるかの如く日本の国土をめちゃめちゃに走り回っている姿はこれでしかありません。 「雰囲気で学ぶのりもの図鑑」ととぼけているのが、逆に以降を意味深にしている感じもあります。

・文字の音感がとてもよい。「の」と「し」、「ま」と「つ」のなんか、こう、、このね、この感じが、、

 

福原公園篇

次は、福原公園篇です。

 

一つ目(安田の作文)

 

【企画者評】
 これは非常に良い作文だと思います。素晴らしいセンスを感じました。安田さんの作文は非常に感覚的なため諸刃の剣になりやすいのですが、これは当たりの作文だと思います。語彙の選択が素晴らしく、一貫してこの作文を貫いている真夏のような透き通ったみずみずしさを感じ取ることができます。これはただのイメージですが、夏のプールの水しぶきのような作文だと感じました。
 「不死身のアルデンテ」から何かが徐々に身体を起こし起き上がって、「ラッパが鳴った」でするどく吹っ切れ、「恍惚とした表情を浮かべて」で爆発している感じがします。それも、ポップコーンのような爆発です。この作文のサビは間違いなく「ラッパが鳴った」です。
 冒頭の安田さんの作文の講評でも述べましたが、この手の作文は「ただ語を並べている」感が否めなくなるのが弱点です。しかし一方で、ただの「語」の羅列ゆえに一つ一つの単語が重みをもって連なって、その連なったピースがある一定の情景を思い起させるということも可能なのです。今回の作文の場合完全なる後者で、きらきらとした夏らしさ、しかし「不死身のアルデンテ」「クワバタオハラの亡霊」「うらやんでいる」などから窺える肝試しのような不気味さ、この二つが混じり合いながら、全体としては薄気味悪いほど現実的かつ空想的な表現に落ち着いています。

 

【関係者評】

・「不死身のアルデンテ」というフレーズの時点でもう勝っています。 ゴチャゴチャの「ふ」「く」「は」に続く「ラッパが鳴った」の終末感・神聖さのあとで(多分天使的な何かが)プペル7回視聴をうらやんでいる(という主観的表現)、の流れからは、惨めで猥雑で滑稽で俗なものを卑しみながらも愛おしんでいる感じがします(どんな感じ?)。 イロジカル作文を評するおおまかな方法論を編み出したいです。

・ごめん、やっぱり何回見ても面白いかも。最高

 

 

二つ目の作文(ゆおの作文)

 

【企画者評】
 これは声のよく響く場所(例えば、廃墟となった鉄筋コンクリートの建物)で呟かれた言葉です。それらの言葉が空間の中で反響しこだまして音が四方八方に飛び散り、そのうちの一つが上から「俺」の耳に降ってきた、というイメージです。そしてその言葉は「お前」に響かない空虚なものであるということを「遠心力」という比喩で表現しました。私は遠心力について詳しいことは何も知らないのであくまでイメージですが、言葉たちが円を渦巻いて消えるような情景を思い描いていたので遠心力という言葉をチョイスしました。
 ちなみにどうでもいいですが、「踏みとどまってくれ 苦楽を共にしたお前がハラキリするのをみたくない 楽なことなんてねえさ、人生なんて」は途切れることなく言ったのではなく、「踏みとどまってくれ 苦楽を共にしたお前がハラキリするのをみたくない」で一度カットが途切れ、「楽なことなんてねえさ、人生なんて」と続くイメージです。

 

【関係者評】
「お前」を説得しようとするあまり、つい「楽なことなんてねえさ、人生なんて」などという薄ら寒い宥め文句を吐いてしまうと、心の伴わないその言葉の虚しさが客体的に感じられ、ついにそれは物理法則に統べられるただの音と化してしまう、というような、声から感情が抜けて物理現象に還元されていく過程に、一人称→二人称(動作主視点)→二人称(相手視点)→三人称的な推移を感じます。巧みだ......と思いました。

・物語を作るのがうますぎる。この身近な文章の中に一体どれほどの泪を詰め込んでいるのか。もう108周回って嬉しくなってきた

 

 

三つ目の作文(藤田の作文)

 

【企画者評】
 今回のおくの細道で、個人的に一、二を争う作文です。このような詩的で甘美な風景描写をあいうえお作文という未知の媒体で表現しているというギャップ性が面白さを加速させていると思います。こういう情緒ある表現は一見簡単そうですが結構難しいです。それっぽい言葉を並べるのは簡単ですがそれを違和感なく綺麗にまとめるというのが曲者で、慣れてない人がやると歪みみたいなものが生まれるので見ている側としては一目でわかります。でも、これはそういう歪みが一切ないので相当上手いと感じます。まあ今回のおくの細道はレベルが高かったのでそういう歪みがある作品は全体を通して一つもありませんでしたが。ちなみに、最初これを見た時は「園児」よりも「嬰児」の方がいいと思っていたのですが、色々考えて今になって見てみると、「園児の昼寝」の裏切り感が心地よく、こちらの方が良いような気がしています。当時、藤田さんは一つオチをつけたかったから「園児」とした、と言っていたのですが、今になってその意味が分かります。「ファジーネーブルに」から「うつ伏せで」までが非常に綺麗に収まっているからこそのこの裏切り感は見ていて非常に心地いいです。例えるなら、甲子園決勝、1点ビハインドの9回裏ツーアウト、バッターボックスに立つのは4番バッター、誰もがホームランを期待して固唾を飲んで見守る中、当のバッターはニカッと笑って放屁する、というくらいの裏切り具合でしょうか。

 

【関係者評】
「えん」が「え」だったら、「嬰児の昼寝」でも良かったな~と思いました

・エモーショナルという言葉はこのあいうえお作文の為に作られたに違いありません。そうでしょう。

 

 

四つ目(二ツ島の作文)

 

【企画者評】
 まず冒頭にある「不浄の街」という一文から、どこかどんよりとしている情景が読み手の頭の中に想起されます。それが次の「くっきりたたずむ」でさあっと霧が晴れるようにその情景が取り払われ、「ハラール専門店」が浮かび上がります。この一連の情景の描写が映像的で頭に入ってきやすいと感じました。
 ラストオーダーが午後5時であることにハラール専門店の名前が「やさしさ」である最大の要因がある気がします。この専門店は不浄な街の中でくっきりとたたずんでいる、つまりすべてが曖昧でうやむやな世界の中にある良心のような存在だというメッセージが読み取れます。そして、午後5時と言えば、夕焼け小焼けのチャイムが流れ、子どもが帰路に就くことを促す時間帯です。ラストオーダーが午後5時であるのは「早くおうちに帰りなさい」という母親のようなやさしさゆえなのではないでしょうか。
 しかしこのようなストーリーも最後の2行で裏切りを受けます。「不浄の街にただひとつ」から「ここだけ午後5時」までの温かさが包含されたストーリーを拍子抜けさせるような謎の駐車場の存在を明かされるのです。しかも、この駐車場が「裏手」にあるのがみそだと思います。
 ここで読み手側は、これまでの「やさしさ」の裏にある謎の、しかも闘志が読み取れるような駐車場の存在に不安になります。それは、やさしさの裏に隠された狂気ともとれるからです。二枚舌を使われたような恐怖を、得体のしれないものへの恐怖を迫られるのです。
 なかなかおぞましい作文だと感じました。

 

【関係者評】
・浄性、時間、空間の各々について区切り(前後、表裏)が存在していて、並置されることでそれらに関連が生じています。あるいは、時間・空間の区切りに逐一浄性の観点が絡んできます。不浄の街に清浄なレストラン、清浄なレストランの閉店後(不浄な時間?)、その裏手(不浄な空間?)というように。 そしてもしここで裏手にあるのが円形闘技場だったら、その不浄性が確定し、”やさしさ”は裏切られ、浄性はせいぜい仮初めのものであることになってしまいます(が、このオチが一番論理的ではあります)。しかし実際にあったのは「円形闘技場型立体駐車場」で、それはあくまで駐車場であり、穏やかではないですが”やさしさ”は覆りきりません。するとラストオーダー、駐車場の描写は単なる「やさしさ」の説明になり、途端にストーリー性が蒸発します。この作文自体がさながら「円形闘技場型立体駐車場」です。 それを踏まえて読み直すと、「やさしさ」が「くっきりたたず」んでいるというのは、そこに裏切りとか二面性みたいなものはないという意味にも思われます。 「円形闘技場型立体駐車場」、「構造主義マルクス主義」みたい(名前しか知らないが)。

・最後のエンとラストオーダーが午後5時のキモさ。が、しかしそのなかにも漂う裏路地のような香り。ありがとう。

 

盆踊り篇

 とうとう最後、盆踊り篇です。伊勝小学校にて開催されていた夏祭りにおいて、盆踊りを眺めつつ作文を作りました。これまた風情がありますね。

 

一つ目(安田の作文)

 

【企画者評】
 全くもってストーリー性はないですが、なんとなく意味があるようにみえる雰囲気を作りだすのが非常に上手いなと思いました。私はこの作文大好きです。「煩悩に支配されたおしどり夫婦」「ドフラミンゴが来たんだ リチャード博士の言う通り」の二つをどう結び付ければ良いのか全く分かりません。煩悩に支配されたおしどり夫婦とリチャード博士の予言通りやって来たドフラミンゴに一体どんな相関関係を求められるというのでしょうか。
 ただ、こういう「意味が通っていないのになんとなく面白い作文」って素敵だなと思います。こういう、しっかりと言葉にはできないけどなんか好き、というのを大事にしていきたいです。

 

【関係者評】
見たことねぇ漬物だ!! フッフッフ!!

・本当にごめんなさい、覚えてないけどこの作文面白すぎる。煩悩に支配されたおしどり夫婦。見たすぎる

 

 

二つ目(藤田の作文)


【企画者評】 
 奇怪な世界観が好印象です。これは近未来とも近現代とも言えない、世界に物質的な飽和状態が起こる前のほんの一瞬の刹那に作られたあいうえお作文です。

 「ボンジュール、ムッシュー オシロスコープが喋る」と「瞳孔をこじ開けるリュミエール兄弟の奇術」という結びつけることができない二つを並べているという点で先ほどの安田さんのおしどり夫婦の作文と似たものを感じます。ただこの作文は安田さんのものと違って「ボンジュール、ムッシュー オシロスコープが喋る」と「瞳孔をこじ開けるリュミエール兄弟の奇術」の間に微妙なつながりがあるためむずむずする作文になってしまっている気がします。
 安田さんの「煩悩に支配されたおしどり夫婦」と「ドフラミンゴが来たんだ リチャード博士の言う通り」は二つの意味があまりにもかけ離れているためそこを結び付けようという気が起こらず、雰囲気で作文を楽しもうという方向にシフトさせることができるのですが、「ボンジュール、ムッシュー オシロスコープが喋る」と「瞳孔をこじ開けるリュミエール兄弟の奇術」はどちらからも漂うフランス要素やなんとなく似通った世界観のせいでこの二つを結びつけなければならないような気がしてしまいます。しかし、現実には結びつけることはできないのでなんだかぎくしゃくした気持ちになりました。
 ただ、もしオシロスコープが喋るというリュミエール兄弟の奇術を形容する言葉として「瞳孔をこじ開ける」があるのだとしたら筋が通るなと思いました。驚く時の形容として「目を丸くする」などの目を大きく開くという意味の言葉を使うことがありますが、驚きすぎて瞳孔すら開いてしまったということであればストーリーに一貫性のある、そして言葉の選び方も面白い作文だと感じます。

 

【関係者評】
「奇術」が気に入ってません。

・フランスの輝き。瞬き。奇行。奇術。

 

 

三つ目(ゆおの作文)

 

【企画者評】
 
最後は私の作文です。これは盆踊りを見ながら作ったので、作文の中にも踊り要素があります。
 正直言ってこれはストーリーに何の捻りもないので特に解説もありません。踊りを踊っている男の心情です。一応言っておきますが、ここで踊られている踊りは盆踊りではないことは確かです。
 ちなみに、この作文はおどるぽんぽこりんやバブリーダンスが永遠にループしている空間の中でそれらに思考回路を邪魔されそうになりながら必死で作ったものなので、自分の考えが出やすかったのかもしれません。みんな祭りを楽しんでいるのに、なぜこのようなカルマを背負わなければならないのか謎でしたが、そういう星の元に生まれたのだから仕方がない。私がさくらももこ登美丘高校が好きだったので良かったものの、そうじゃなかったら気が狂っていました。

【関係者評】
「ドリーマーなんだよ俺は」、時々自分に言い聞かせたい。ちょっとRRR?

・常に勝負を挑んでくる姿勢。真似したい。

 

 

 というわけで、あいうえおくの細道はこれにて閉幕です。私はあいうえおを見過ぎてしまったのでもう寝ます。おやすみなさい。
 あいうえお作文というブルーオーシャンに飛び込んだ我々。その先の景色がどうなるのか、今後とても楽しみですね。

*1:今回の作文に使っているこのフォーマットは、藤田さんが使っていたものを譲り受けました。公式フォーマットと言っても過言ではありません)