大学生の自由帳

ペンギンパニックとエノキ工場の香り

名大文学部の組織体制の変遷

 

ご存知のように、名大では昨年から新カリキュラムに則って全学科目の授業が実施されている。一応名大史における新展開であり事件のはずであるが、履修計画が従来と大幅に変わるというようなことはなく、ほとんどの学生にとって新カリキュラムへの移行はほとんど実感を伴わないものであったに違いない。

実質的な変化は軽微なものであったが、その代わりと言うべきか、講義名・科目名はかなりがっつり変更された。「生と死の人間学」「名大の歴史をたどる」「ジェンダーの視点から考える21世紀の日本社会」のような脳震盪を起こすほど強烈にカッコよかった教養科目の講義名も例外ではなく、「哲学・思想入門」「名古屋大学の歴史」「ジェンダー」というような凡庸極まる名称に改められてしまったりもした。

 

ところで、実はこのカリキュラム移行と同時に、似たような変化がさりげなく文学部にも起こっていた。

上は2021年、下は23年の『名古屋大学プロフィール』p.08である。

 

何かが...何かになっている!

 

何かが何かに、それも結構大胆に改称されている。

されているが、それがどれくらい事件なのか、これだけ見たのではよく分からない。以前の名称もいまいちしっくりきてなかったからだ。そこで、文学部の組織体制の主に名称の変遷について以下に簡単に概観することで、このアップデートを評価する観点を持ってみたいというのが本記事の趣旨である。

このように、本記事の関心は名大文学部の汗と涙と胃酸と尿と髄液の75年史を克明に記述することにはなく、ただ表題について総覧し「へぇ~~」となることにあるので、文学部史の記述としては不十分極まるものとなっている。しかし、アマチュア大学史にもし価値があるとすればそれは企てに専ら存するのであって、内容の詳細さや正確さに関しては『名古屋大学五十年史』をはじめとした”正史”に敵うわけがないので、あまり拘らなかった。

 

 

1996年以前の内容については『名古屋大学五十年史 通史二』、『同 部局史一』、『名古屋大学文学部二十年の歩み』に準拠しており、それ以降については『名古屋大学文学部六十年の歩み』や学生便覧、『名古屋大学プロフィール』、および各種サイトを参照している。情報源がやたら分散していてちょっと収集がついていないところがあるが、そのへんは適当に誤魔化してある。

 

名城時代

名大文学部は1948年9月14日に名古屋城二の丸の「名城キャンパス」に誕生した*1 *2。城郭内にキャンパスがあるという点では、かつての金沢大のようである。市長はまだ河村たかしではなかったので、エレベーターはなかった。

名大文学部は伝統的な哲・史・文の3学科で発足し、それらのもとに、予算や人材の兼ね合いから下図にある6講座がまず第一陣として設置された。

この「講座」という単位は、文科省の認可のもと教員を核として設置される、今で言う「専門」的なものだったと思われる*3

 

名城時代に文学部に設置された講座は以下のようになる。

1954年以前の講座のナンバリングは、学部設置前に旧制第八高等学校の校長であった栗田元次氏が作成した、今後設置する予定の講座案(通称「栗田案」)およびその修正版に基づいたそれである。

ちなみに、1954年の文科省令でこの「〇学第✕」という名称が改まったようだが*4、それまでに実現しなかった欠番講座は何なのかというと、哲学第五(宗教学宗教史)、哲学第六(倫理学)、史学第一(国史第一)、史学第四(東洋史第二)、史学第七(考古学)、文学第五(独文学)である。『五十年史』の記述によるともう2講座あったようだが、心理×2か心理と美学美術史であろう。

 

それはそうと、個人的に驚いたのは、名大のおもしろの74%を担っている*5あのインド哲学研究室が、まさかの文学部最古参の一角であることだ。しかもその草創期には、インド哲学・仏教学界の長老で東京帝大を定年で退官していた宇井伯寿氏が教鞭を執っていたという(すごそう!)。

もはやちなんでもないがついでなので書くと、2019年までインド哲学研究室を率いていらした和田壽弘先生は2008年~2009年にかけて文学部/文学研究科の長を務められていたが、その間に謎の広報誌「月刊 名大文学部」(月刊名大文学部|名古屋大学人文学研究科)が創刊されたため、その第一号は和田先生の記事となっている。このように、文学部史上で謎の存在感を発揮しているインド哲学研究室には、ぜひとも近いうちに名大の権力の74%を掌握してほしい。

 

また大学院に関して、旧制文学研究科という謎の組織が短期間存続しており、その間に博士を通算6人だけ輩出している(下図)。その実態については『五十年史 通史二』に「旧制の大学院は制度的には各学部の上に連なるコースに過ぎず、大学院のための演習や講義も設けられず、もちろん独自のカリキュラムもなかった」(p.229)との記述があり、専攻の欄には「学部と同じ?」と表記しておいた。

右下の方に注目

大学院つながりで、哲学専攻を差し置いて東洋哲学専攻(中哲とイン哲の謎のユニット)が先に置かれているのがちょっと面白い。他大と比べてどうかは分からないが、名大からはしばしば「アジア」意識の強さが感じられる。

 

東山時代・20世紀

この間の新設講座は以上の通りである。実験講座の新設が多い。

1962年に文学部は東山キャンパスに移転してきた。文学部棟内では、ざっくり2,3,4階にそれぞれ哲、史、文の各学科の研究室が入居していたようである。

 

先ほど脚注で研究室紹介文を引用した美学美術史講座が1974年に設置されているが、それにこぎ着けるまでに組織内で一悶着も二悶着もあり、この内紛まがいの混乱は「美学問題」として、『五十年史 部局史一』の文学部の章の7分の1を占めるローカル名大史の闇となっている。関心のある方は五十年史を参照されたい。

 

国史学第二」は文学部史上二種類存在する。一方は考古学講座の前身のそれであり(63~66年)、もう一方は名の通り国史学の第二の講座である(81~95年。栗田案でも予定されていた)。なんか中国王朝みたいだ。国史学講座を「中国王朝みたい」とか言うとややこしいが。

 

 

東山時代・21世紀1

半世紀の間、哲史文の3学科のもとにコツコツ講座を増やしてきた文学部であったが、1996年の「大講座制」の導入によって突如3学科は「人文学科」に統一される*6。この大講座制への移行によって文学研究科は、全学的に進められていた大学院重点化も同時に達成した。

「大講座」の意味するところとは、『六十年の歩み』や2000年代初頭の学部HPにおいて図の「専門」が「講座」として紹介されていることから、狭義にはこのことを指しているのだと思われる。小講座制における学部の「講座」と大学院の「専攻」が「専門」に一元化されたことを特徴とする体制なので「大講座制」なのであろうか。

 

大講座制においては先述の通り「学科」が廃されたが、それに代わるサブカテゴリとして「コース」が導入され、しかも第四の勢力が誕生している。このあたりの変化は旧教養部の再編と密接に関係している*7

社会学、心理学、地理学の3研究室は異端審問にかけられ、1998年についに文学部本館を追われて新設の「環境学研究科」へ移った(心理学については、2017年に今度は環境学研究科から情報学研究科へ移っている。すごいフットワークだ)。

その穴を埋めるように、大学院専担講座として「日本文化学」および「比較人文学」が発足する。前者は、人間情報学研究科が情報科学研究科へ改組されるのに伴い、何やら複雑な経緯で誕生したらしい。

 

また、2002年に文学部棟の改修があった。環境行動学チームの転居もあり、研究室配置が以前ほど単純でなくなっている。

 

それと、古参感しかない西洋古典学研究室がこの年に誕生する。とは言え、文学部発足当初からギリシャ語・ラテン語の授業および研究活動は脈々と続いていて、20世紀も幕を閉じようかというところでようやく講座化にこぎ着けたという話である。全然古参なのだ。だから、虚空からいらっしゃった吉武先生が無から研究室を創造されたのではない(研究室は元々あったのかもしれないが、面倒で調べていない)。

 

個人的に注目したいのは、美学美術史学が「史」のグループへ移ったこと、中国文学が中国哲学インド哲学...ではなく「インド文化学」*8と一緒に「東洋学講座」なる謎のスリーピースバンドを組んでいることである。この謎グルーピングのために、中国文学専攻の学生は選択必修で中哲とイン哲の何かしらの授業を取らねばならなかったのである。いや寧ろ、インド文化学専攻の学生は中哲と中文の授業が選択必修で、哲学や西洋古典の授業がそうではないことの方が意味が分からない。

美学美術史学が「哲」のチームであった名残でか、研究室が2階にある(ただ発足当初は1階)。しかし、環境行動学勢の抜けた後、哲学と中哲は3階へ”昇格”しており、2階にはどうしてか”孤低”を貫いているインド文化学しか「哲」はいないので、現在では2階に「哲」のフロアというイメージはあまりない。

 

最後に言及しておきたいのは、フランス文学研究室の分裂である。一昨年まで仏文には研究室が2つ存在していたが(仏文と仏文第二)、2研究室体制となった経緯や意義が公然と語られているところを少なくとも私は見たことがなく、ずっと謎であった。

学部HPを見ると、どうやら仏文が分裂したのは2010年頃のことであるようだ。その経緯に関しては、何となく詮索するべきではなさそうなのでしないでおく。

 

 

東山時代・21世紀2

教養部の超新星爆発以来、加速度的に発展を遂げる名大であるが、前体制から20年ほどしか経っていないのに新体制が打ち出された。この変化も前回同様、旧・情報文化学部周りの変化と連動している。

 

院専担講座のニューフェイスは基本的に、同年に解体された国際言語文化研究科などから合流してきた面々である。しかしこの国際言語文化研究科は、元はといえば1988年に文学研究科に設置された日本言語文化専攻を淵源としているので、実質的に”再会”である。ドラマだ。

映像学は日本文化学から独立したものである。

これまで院専担だった文化人類学が学部で開講されるようになった。

 

「X語学」を持たない「X文学」の研究室名がこぞって「X語X文学」になった。ちょっとくどいけど、妥当だ。

 

些細なことながら、「歴史学・人類学コース」にだけ「・」が使われているのが微妙に気になる。

思い出されるのは、同じく2017年に工学部の「電気電子・情報工学科」が「電気電子情報工学科」に改称されていたことだ。この一件で「『・』って認識されてるんだ」と気づかされた。

 

そんなのはどうでもいいのだが、どうでもよくないことが、コースの紹介順が従来の「哲→史→文」から「文→哲→史」に変更されていることである(下図は2017年の『名大プロフィール』)。

 

こう些細な序列意識をネチネチ指摘するとAdoとかに叱られそうだが、意外と大胆な変更だと思わないだろうか。

この組織再編があった2015~2018年の間は言語学の先生が学部長をされていたことから、その関係で何らかの何かがあったのではないかと個人的に思っている。ちなみにその先生は2019年から現在に至るまで副総長もされており、本当に名大の権力の74%を掌握していそうである。



昨年

そして昨年である。下図は今年の学部パンフレットに載っていた表である。

新体制移行の契機というか主因はよく分からない。これまでと違い、他研究科が合流してきたとかでは特にないようである。そういう研究室のグルーピングの変化というより、教育課程のシステム的な変化が中心であるようだ。

 

「英語文化学繋」なる第五の勢力が出現した。見方によっては、「文学第四」がとうとう一つの学科(相当の組織)にまで上り詰めたのだと言える。なんかワンピースの趣がある。

また地味に、日本語学と日本文学が別々の学繋に分かれてしまった。2019~21年の間、人文学研究科長は日本語学の先生だったが、何か関係があったりするのだろうか。

 

ちゃっかり仏文の分裂状態が解消されたが、かと思えば今度は、独文が実質的な分裂状態に突入したように見える(ドイツ語ドイツ文学と、ドイツ語圏文化学?)。名大ドイツ界隈と少しも縁がないので、子細はふつうに分からないが、部外者は多分何も知る必要がない。

ところで、この独文の先生がセンター長を務められている「人文知共創センター」なる謎組織の陣営が、この前発見したのだが、文学部本館””5階””に設置されていた。まず、文学部に””5階””の概念って存在したのか。

人間・社会・自然の来歴と未来—「人新世」における人間性の根本を問う – 日本学術振興会「課題設定による先導的人文学・社会科学研究推進事業」学術知共創プログラム

というか、これでもし””地下””にも「人文知共創センター」が埋設されたら、オセロの要領で文学部本館の組織は全て「人文知共創センター」になってしまうではないか。””地下””については、現在文学部棟の真正面では日々せっせとグリーンベルトの掘削工事が進められているが、人文知共創センターはこれに乗ずるつもりであるに違いない。

””5階””を暴かれたばかりに、思いもよらぬピンチを招来してしまったようだ。かの組織は文学部の胃酸と尿と髄液と汗と涙の75年史を、当記事ぐらい強引に終わらせる気だ。

だが、個人的には、いっそ終わらせてほしいまである。終われ。全て終われ。本当にすべき無数のことをせずにこの記事を書いている。本当にすべき無数のことに費やすべきエネルギーをこの記事に傾注している。割にこの出来。全て終われ。意味がないから終わらない。停止しないギリギリの強さでエレベーターを蹴った。時間がない。鮭丼ならある。鮭丼があるから、昼休みが終わらない。

 

 

 

 

*1:早速余談ながら、文学部が当初から「文学部」という名称で発足したのは、旧帝大では東大、京大と名大だけである。北大、東北大、阪大、九大のそれは「法文学部」から分離独立という形で発足しており、名大も文学部発足の半年前までその予定であったようである。現在13ある国立の「文学部」の中で見ても、旧帝を除く6校のうちだとそのような文学部は奈良女子大と広大のそれしかない。だったら何だという話ではあるが。

*2:明治村に名城キャンパスの文学部3号館が移築されている。

https://nua.jimu.nagoya-u.ac.jp/upload/meidaishi/20/27cc057f125c63e2f8ea15430822d4c7.pdf

*3:研究活動が行われていながら講座の設置はまだされていない、というようなこともしばしばあったようである。

参考までに、以下は『名古屋大学文学部二十年の歩み』の美学美術史研究室の紹介文の冒頭である。美学美術史講座が正式に設置されたのはこの冊子が編まれた6年後の1974年のことであり、この記述に従えば実に20年間も”地下”で研究活動を行っていたことになる。

文学部に美学美術史が出来たのは教官の着任をもって始まると解すれば、それは昭和二十五年六月三十日である。この日、学者とかスマートさとかそういうイメージとはおよそ縁遠い一人の青二才が名古屋駅に降りた。

ところが、駅には、「私は美学の専攻生です」と名乗る学生が出迎えていた。彼は、確かに「私は(既に)美学を専攻している」と云い、「これから専攻する」とは云わなかった。後で知ったことだが、旧制の数名の学生は、教授会・教官会議がまだ、専攻講程の設置や教官人事を決めてもないのに、「私は美学の専攻生だ」と自称してはばからなかったようである。(以下略)

*4:https://search.kanpoo.jp/r/19540907h8305p105-2/#%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E5%AD%A6

*5:名大オーキャン体験記 - 大学生の自由帳

*6:関係ないが、この4年後に南山大学の文学部が「人文学部」に改称されている。本当に関係がない。

*7:https://www.jstage.jst.go.jp/article/sesj1988/19/6/19_6_621/_pdf

超新星爆発後の教養部周りの事情はとてつもなくややこしく、推理小説のネタにならないかなと思っている。

「『人間情報科学研究科』?『人間情報学研究科』(1992~2003)、『情報科学研究科』(2003~2016)、『情報学研究科』(2017~)ならかつてありましたが、そんな名前の組織は知らないですねぇ」

「し、しまった!」

*8:「インド文化学」という判然としない名称は2017年に再度改められたが、にも関わらずインド哲学の専門の授業名は2021年まで「インド文化学概論/講義/演習」のままであった。