大学生の自由帳

ペンギンパニックとエノキ工場の香り

工学部100号館へと続く階段(後編)

タイトルにある通り、この記事は前編からの続きになっている。後編はあんまり図表とかがないので、蘊蓄を期待してここまで読んでこられた方は普通に最初から「名古屋大学の歴史」を読んでください。

 

nujiyucho.hatenablog.com

 

 

 

東山デルタ像の出現と崩壊

デルタ像の出現と存続

前記事で予告した「新説・名古屋大学」の4番打者とは、ずばり東山デルタ像である。

 

 

ところで改めて考えてみると、今後東山デルタ像の存在を知らない名大生がネットサーフィン中に誤って当記事に座礁してしまう可能性は全く無いわけではない。というか寧ろ、今年以降入学する名大生が過去にキャンパスにあったふしぎオブジェのことを知っていることの方が奇妙だ。

そして彼らには多分、ここで満を持して「”新説・名古屋大学”の真髄は『東山デルタ像』です。」と宣言した私の気合いというか、意気込みみたいなものは残念ながら伝わらないだろうが、そうなったらこの記事は賞味期限切れである。この記事は割と生ものだ。

 

さて、この東山デルタ像、正式名称「坒・・」*1名古屋大学に出現したのは、1983年の3月らしい。名大一マメなメディアだった名大新聞にバッチリ記事が出ている。


デルタ像は元々名大生協法人化20周年を記念して制作が開始されたのだが、あってはならないことに20周年となる1981年内に完成できなかった。しかし何者かの妙案によって、法人化20周年記念彫刻としてではなく創立30周年記念彫刻として翌年寄贈されることになったのだという。なんと間抜けな経緯であることか。というかそもそも、法人化20周年などというめでたいのかどうかもよく分からないアニバーサリーにこのようなよく分からない彫像を贈るという行為自体、控えめに言ってよく分からない。

 

そうして建った東山デルタ像であったが、その媚びない風体のためか、この像は設置以来40年近くただ風景と化していたのではないかと推測される。ちょっと辛辣な言い方をすれば、多分あんまりウケてなかったのだ。

証拠としてはちょっと弱いが、Twitterで「デルタ像」を含むツイートを遡ってみると、驚いたことに2021年以前のツイートはほぼ全く存在しない。検索してヒットする現状最古の(デルタ像のことを指して言われた)「デルタ像」を含むツイートは、実は先ほど引用した(元)ミスター名大のそれである(!)。

一応もう一つの証拠としては、例の名大史ゾンビこと「ちょっと名大史」も東山デルタ像のことを記事にしているのだが、その記事というのが第233号なのである。このことからは、デルタ像が連載20年目を迎えようかという頃になってようやく記事になる程度の認知度・注目度しかなかったという事実が透けて見える。

 

しかし2021年以降、「デルタ像」を含むツイートは一転して急増する。前編冒頭でリンクを貼った研究会研究会の記事でも触れられているが、デルタ像が洋服の青山のロゴに似ていることをネタにしたツイートが秋頃に複数なされ、大体その頃からデルタ像が”ネタになりうる存在”として新たに認知され出したようだ。

以前書いたマックの記事のときもそうだったが、名大のちょっとディープなところを掘ろうとすると、大抵既に江坂さんがそこを通っている。さながら名大のアリストテレス*2

 

デルタ像の崩壊

「ちょっとデルタ像史」はこれくらいにして、さっき少し触れた「ちょっと名大史」の記事を見てみよう。

さっきの名大新聞には、肝心のこの像の持つ意味や表現しているものについての記述が欠落していた。一方でこちらの記事では、ごく簡潔ながらそれらについて書かれている。

当初の仮題は「永遠の時間」で、像はピラミッドを示し、一方はそれが長い歳月をかけて崩壊した状況を表現していると説明されています。

この日本語の説明文を理解することは易しい。だが、結局この像は何が言いたいのか、つまり、「ピラミッドが長い歳月をかけて崩壊した状況」を表現した東山デルタ像がどうして東山キャンパスにあるのかについては、私自身これまで特に考えたことがなく、また考えたとしてもよく分からなかっただろうし、おそらく多くの名大生にしてもそうだろうと思う。意味はまだ分かるにしても、意図が分からないのだ(蓋しこのオブジェがこれまであんまりウケなかったのと最近にわかにウケだしたのは、そこに原因がある)。

 

と言っても、私をはじめあらゆる名大生にとって、そして文書資料室や名大生協や洋服の青山にとっても、そんなことは畢竟どうでもよかった。謎おもしろオブジェであるだけでもうよかった。

そんな怠惰な我々に痺れを切らしたデルタ像は、遂にこうなってしまったのだ。

 

デルタ像はとうとうブチ壊されてしまったのである。一応予告はされていたが。

デルタ像があるはずの場所にあったのは、ただ名状しがたい凄まじさを放つ残骸だった。

それまで私はずっと、目下キャンパスを残酷なまでに席巻している変革の奔流の渦中で、何らかのイベントや建物(例えば北部厚生会館)について語る風を装いながらこの何とも言えない感慨を言葉にし、激流に棹さす程度の抵抗をしたいと考えていたのだが、まだ諸々のイベントと私の感情を媒介する項を発見しかねていた。

しかし、この崩壊したデルタ像の迫力に驚かされたとき、それまで私の頭の中にあった、微妙に関連し合っていることは分かっていながらうまく繋げることができないでいたキャンパス開発史上の諸イベントが、デルタ像の語る一つの物語のもとに統べられる可能性に打たれたのである。

 

 

「デルタ像の崩壊」とは、しかしややこしい。なぜなら、デルタ像自体が「(ピラミッドの)崩壊」を表現しているからである。

この事実について、こう考えることもできるだろう。デルタ像が表現していた崩壊とは、実は自身の崩壊だったのである、と。つまりデルタ像は、それが誕生した瞬間から、ただ真摯に崩壊を表現し、ひたむきに崩壊へと突き進んでいた。そしてその予言が成就する形で、遂に真の崩壊のときを迎えたのだ、と。

しかし、この解釈には不徹底なところがある。デルタ像が表現していたのは「長い歳月をかけた崩壊」である。岩石が風化していくような、あるいはピラミッドの側面のように段々に、漸次的に崩れていくような崩壊を表現していたはずである。そのことは、名前に使われている「坒」という漢字が、要するに「陛」階段のことであり、名大新聞にもあるように「連なる」「続く」というような意味合いを持っていることからも分かる。ところが、デルタ像に訪れた崩壊とは、重機の振り下ろす一撃のもとなる瞬間的な崩壊であった。

 

この矛盾に応答する形で、一つの仮説が提示される。今回の瞬間的な破壊は、あくまでピラミッドの最初の1段、デルタ像の足下に埋め込まれていた石の最初の1枚に過ぎず、まだこれから第二、第三の崩壊が訪れる。つまり、デルタ像が表現していた崩壊とは自身の崩壊のみならず、自身の崩壊を皮切りとして、爾今続いていくあらゆるものの崩壊なのだ。

 

 

第2グリーンベルトの図像学

デルタ像とグリーンベルト

一旦この仮説に基づいて、「東山デルタ像の意味」を「東山デルタ像の存在する意味」へ接続させていくことを試みるが、そのためにはまず、説明に必要な役者を揃えなければならない。その過程でしばらくは話の方向性が不明瞭になるかもしれないが、少し我慢してもらいたい。

 

デルタ像は崩壊したが、それは那須町殺生石のように単体で自然に壊れたわけではない。デルタ像の崩壊とは、今まさに我々の目の前で繰り広げられている第2グリーンベルトの崩壊と完全に並行して進んでいる、これと全く同質のものである。

とすれば、先ほどはデルタ像が表現していたものを「自身の崩壊(をはじめとした連鎖的な崩壊)」だとしたが、そこでいう自身というのはデルタ像も含む2グリのことであり、像は「第2グリーンベルトの崩壊」を表現していたのではあるまいか。

もう一度、東山デルタ像が2グリに出現した年を思いだしてみてほしい。それは1983年のことだった。ここで、前記事で1980年代の東山キャンパスについて私がくどくど書いていたことも思いだしてほしい。覚えているだろうか、1980年に「1億円の庭園」第2グリーンベルトの大整備があり、この翌年に2グリの西端に中央図書館が竣工したことを*3。デルタ像は、2グリが(「1.0」における)完成を見るやすぐに(「名大生協法人化20+1周年/創立30周年」などというあいまいな理由で)出現したのであり、その象徴物として不足ない存在なのである。デルタ像は2グリにとって、ショートケーキの上のいちごのような存在であると言って良いだろう。

 

ところで、東山デルタ像には向きがある。地面に埋め込まれた石の部分が既に崩壊したピラミッドを表現しているということは、デルタ像の”時間”はこの方向に流れているということである。この方向とは西から東、言い換えれば、中央図書館のある方から古代アリーナの方へ、そしてその向こうの豊田講堂の方へ向かうそれである。

 

中央図書館と豊田講堂とはただのグリーンベルトデカ建築ツインズではない。そう考える根拠が、「名大史ブックレット9 豊田講堂」にある。

名大史ブックレット-ダウンロード

この冊子が言うには、東山地区は元々、名古屋帝大創設時に県および地元から無償提供された敷地なのだが、このとき県は同時に講堂と図書館の寄付を約束しているのである。物資不足と物価高騰によって直ちに実現とはならなかったが、このことはつまり、東山キャンパスと講堂および図書館は不可分のセットだったということを示している。

1960年に爆誕した豊田講堂と、1964年に開館した古川図書館の後継者である中央図書館が、最初期のキャンパスプラン以来(西端以外)ブレずに名大の背骨であり続けているグリーンベルトの東西に仁王像の如く対になって鎮座していることは、必然とは言わないまでも決して偶然ではないのである。そして、2グリの象徴的なオブジェであるデルタ像をこの両者との関係において読むことが必ずしも附会とは言えない所以でもある。

 

古代アリーナの崩壊

この両者に挟まれた2グリだが、ところでここには、デルタ像以外にも注目すべき場所がある。デルタ像と同じくバキバキに破壊されていた古代アリーナである。

これを知らないでは卒業できない!名古屋大学に入学したら行くべきスポット7選 - 大学生の自由帳

 

「古代アリーナ」という呼称の歴史はまだ10年を遡らないようであるが、そもそも古代アリーナと呼ばれているステージ自体比較的新しいものであったようである。

以下の写真は、左から1994,95,96年の名大新聞2月号に掲載されていた第2グリーンベルトの図である。「2グリにステージ出現」みたいな記事は残念ながら(あのマメな名大新聞なのに!)見つからなかったのだが、以下の図を見ると94~95年の間にステージが完成したらしいことが分かる。当記事の提唱するキャンパス史でいくと、加藤総長の「キャンパス再開発元年」宣言から間もないころという位置づけになろう。

 

 

 

「古代アリーナ」という命名がかなり直感的になされたものであることは間違いないと思うが、それにも関わらず、図書館ーデルタ像ー豊田講堂の列に並ぶこのステージが時間と強く関係した名称を持つに至ったことは不思議でならない。

古代アリーナは、ある意味で非常にデルタ像的な性質を持っている。そのことが理解されたのは、やはり古代アリーナが破壊されてからであった。それというのは、古代アリーナの崩壊してはじめて名前の通り「古代」のものとなるという性質、自身の崩壊が予言されているという性質である。

古代アリーナは、それが破壊されて「(絶対的に)古代の」アリーナとなった今の姿こそ真の姿なのだ。そして、古代アリーナのあった場所には「2.0」を完成せしめる東海機構プラットフォームが出現する予定だというが、例え何が来ようが、古代アリーナのことを念頭に置いてその場所を見るとき、そこは言ってみれば「未来アリーナ」になる。

それがじゃあ何なのかというと、例えば工学部7号館の跡地にEI館が建ったのを見た我々は、「7号館がEI館になった」というように、大抵そこにいくらかの連続性を見るだろう。しかし、古代アリーナに関しては滅んだ後の不在の姿の方が真の姿であるので、「(その場所が)古代アリーナから東海機構プラットフォームになった」とは言えても「古代アリーナ東海機構プラットフォームになった」とは言えないのである(「古代」と「未来」の断絶が生まれる)。

 

グリーンベルト曼荼羅

さて現時点では、豊田講堂中央図書館古代アリーナ東海機構プラットフォーム(未来アリーナ)、そして東山デルタ像というこの5者が、グリーンベルトという空間内で、「時間」あるいは「崩壊」をキーワードに微妙に関連し合っているという状態である。

ここで改めて、東山デルタ像の表現していた意味を考え直したい。私はさっきそれを「自身(2グリ)の崩壊を皮切りとして、爾今続いていくあらゆるものの崩壊」と解釈したわけだが、この解釈では「崩壊」とともに東山デルタ像が持っていたもう一つの意味が十分に強調されていない。

そのもう一つの意味というのは「永遠」である。思えば、「崩壊」を体現している彫像が一度でも「永遠の時間」と名付けられようとしていたという事実を、我々は安易に看過してはならなかったのだ。この一見相矛盾する両概念に妥協点が見いだされるなら、それは「永遠の崩壊」「崩壊を通じた永遠」、すなわち「永遠の生滅」であるしかない。つまり、建っては消え、建っては消え...の永遠の繰り返しである。

 

では、やっとといったところであるが、この一歩進んだデルタ像理解に照らしてグリーンベルトという曼荼羅の読解を試みる。

私がここで想定している空間というのは、東山キャンパスにおいて欠くべからざる3要素「豊田講堂」「中央図書館」「グリーンベルト」が作り出すそれである。東山デルタ像は、既に述べた理由からこの空間全体を象徴しているものとみなせるのだった。そして同時にその「永遠の生滅」を体現しており、その生滅を繰り返す時間の流れる方向は、その完成によってこの空間を生ぜしめたところの中央図書館から古代/未来アリーナ、そして豊田講堂へである。

古代アリーナは、名の通り自ら積極的に過去へ退き、後に同じ場所に現れる空間を「未来アリーナ」へと相対化する地縛霊となっている。この霊に憑かれた場所は、常に時間が問題になり続けるのである(2グリにだけ”古代”が存在する)。

そして、山手通の彼岸に聳える豊田講堂は、その堅牢さからもそうだが、何より東山キャンパスの、不老町のシンボルとして不易、不朽、不滅なものと見做されているし、またそうあるべきものとされている。これを「永遠の生滅」に対置させるなら「永遠の存続」であり、それはつまり時間の流れを絶するということである。

 

「永遠の生滅」の彼岸に悠然と佇む「永遠の存続」「時間」の彼岸に佇む「無時間」。かの空間を端的に表わすとすればこうなる。

 

東山曼荼羅

それで終わりではない。この「永遠の生滅」を体現し、グリーンベルトにおける如上の”意味の力学”を駆動していた東山デルタ像は、既に確認したように破壊されたのである。

それによってさっきの私の解釈が揺らいだり、あるいはこの駆動力が失われるということはない。寧ろ逆で、東山デルタ像は実体を失ったことで、この駆動力を止める術を失ったのである。

東山デルタ像が自身の崩壊をその表現の内に折り込んでいるのだとしたら、像としての姿はあくまで表現の第一段階であり、崩壊して無に帰した後も「永遠」を表現し続けていると考えられる。それはちょうど、古代アリーナが地縛霊と化したのと同じように。無となってなお表現を止めないデルタ像なのだが、ではどうやったらその無を破壊できるというのか?

そして外形を失った東山デルタ像は、もはやグリーンベルトに縛られた存在ではなくなる。というか、そのグリーンベルトもろとも、「1.0」もろともブチ壊されたのである。そして東山デルタ像は晴れて、その名の通り汎・東山的な存在となりうる。

 

先ほどはグリーンベルトという空間の中での諸表象の相互作用を見たが、今度は東山キャンパス全体という規模で同様のことをしてみよう。ここでようやく、長たらしかった前編で確認した内容が活きてくる。

前編のキャンパス史概観において、私は「工事の嵐」という言葉を使った。それは2000年代前半にグリーンベルト周りで発生し、理系地区と北部を順に通って、最終的にグリーンベルトに帰ってきた集中的な改修・改築工事のことである。この工事の嵐がキャンパスを一巡する期間は、「2.0」の起動~完成の期間に対応する。この一巡というのが、正確に円運動では勿論ないが、固有の時間を更新しながら一周して元の場所に戻ってくるという点で、どことなく時計の針の動きを彷彿とさせはしないだろうか。

ところで、東山デルタ像のそもそものモチーフはピラミッドであった。ピラミッドは常識的には巨大な王墓だと把握されるが、一説にはこの構造物は日時計の役割を果たしていたとも言われている。仮にこの説が誤りであっても、ピラミッドと暦、時間とは、決して無関係な存在ではないだろう。

この2つの考えが結びつくとき、東山キャンパスはグリーンベルトを軸とした一個の巨大な時計になる。いや、そうではない。東山キャンパスは一個の巨大なピラミッドとなるだろう。それも、永遠に崩壊を繰り返すピラミッドに...。

 

 

工学部100号館へと続かない階段

「みんな死ぬ」

何度も言ってきたように、現在第2グリーンベルトでバカスカ進められている工事の完了を以て「2.0」は完成を見ようとしている。しかし、この「2.0」もまた崩壊する。大学生の自由研究は、50年存続することを1つの目標としたサークル(みたいなもの)であるが、この悲願が達成されるころが、おそらくちょうど「2.0」から「3.0」への移行期間になるだろう。もし南海トラフ大地震が襲来してキャンパスをちょっと破壊したら、その時はもう少し早まるかもしれない。

そして、大学生の自由研究もまた崩壊する。過去には、不滅の学生メディアかと思われていた名大新聞でさえ、世紀末という大気圏で燃え尽きて21世紀には塵になっていた。一方で、不滅のメディアかもしれない「ちょっと名大史」もまた崩壊する。「粋」も「Me~dia」も「名大美女日記」も崩壊する(「総長自由闊達通信」も崩壊する)。全学前で演奏するフォルクローレも、最近ビラやタテカンが増えだした社研も、これから目にする機会が増える名大祭実行も、あとふりゃあも崩壊する。メディ・ベアもメェだいもホームカミングマも、楽単らくだのらくだも学生支援本部のTwitter垢のアイコンのクラゲも崩壊する。最近できたばっかのHELLO, VISITSも、マックみたいに崩壊する。グランパスもボート部も陸上部もラクロス部もホッケー部も鳥人間も相撲部も、名混もコール・グランツェも音舞も快踊乱舞落研も地理研も、理自治も文サ連も体育会も生協学生委員会も、洩れなく全て必ず崩壊する。

 

しかし、どれだけ東山キャンパスで人やものやことが生滅を繰り返そうとも、豊田講堂だけは永久不滅である。豊田講堂の崩壊は、つまるところ東山キャンパスの終焉だ。豊田講堂なき東山キャンパスなどあり得ない。

 

夢を渡る東山キャンパス

そういえば、まだ説明していない言葉があった。タイトルにある「工学部100号館」である。

「工学部100号館」とは、始祖である1号館に始まり、新しく建ったビルに「工学部n号館」と命名する慣習の続く「1.0」が永遠に終わらない東山キャンパスに建ちうる、それも無限に遠い未来において建ちうる金字塔であり、達成である。「1.0」が完全に終わろうとしている今となっては、それは「永遠の不在」を体現している。

 

ここでもう一度、そして最後になるのだが、東山デルタ像のことを思いだそう。デルタ像のモチーフであるピラミッドだが、やはり常識的には墓である。それも、階段状の墓だ。

墓である階段。そのような階段を、「彼岸へ至ろうとする階梯」と捉えることは決して無理な発想ではない。そしてその階段の向かう「彼岸」とは時間を絶した境地、「永遠の存続」であり、より具体的に言えば「n+1.0」が存在しないような「n.0」である。そして階段とは無論「永遠の生滅」であった。

しかし「永遠の生滅」は、一度でも滅んでしまっている時点で「永遠の存続」には到達し得ない。東山キャンパスというピラミッドは「豊田講堂」という彼岸に向かって、これにまみえるべく、「2.0」、「3.0」、「4.0」...と永遠に階段を駆け上がり続けるのだが、その当の「豊田講堂」は既に通過した「1.0」にしかあり得ないのである。つまり、「n+1が存在しないn」は1でないなら他の数字ではあり得ないのだ。

だから東山キャンパスは永遠に階段を上り続ける羽目になる。その無意味さを、豊田講堂を追って踏み出したそのまさに第一歩によって豊田講堂と永遠に断絶してしまったのだということを、東山キャンパスは既に悟っている。それでもなお、東山キャンパスは進み続ける。

だが、進むことしかできないから進むのだというなら、我々は遮二無二虚空を追っているのだろうか。そうではない。我々の前途には、その無限遠方には、「工学部100号館」がある。

いや、それはないのだ。それは「永遠の不在」なのだから。しかし、永遠にないままだから、永遠に追い続けられる。永遠に追い続けることで、そこではじめて、我々なりの永遠、つまり「永遠の生滅」は実現されるのである。

 

 

また見つかった!要するに、我々は既に永遠に片足を突っ込んでいる。だから、もし西暦3000年、恐怖の大王が1000年越しのリベンジに成功し、東山キャンパスが、というか日本が、世界が、宇宙が崩壊しようとも、それで何の問題もないし、憂える必要も全くない。なぜなら、東山キャンパスははなから一個の巨大なピラミッドなのであり、ゆえに巨大な東山デルタ像なのであるから

 

 

 

 

東山デルタ像にコメント(コメントクラブ) - YouTube



 

 

 

 

 

 

*1:なぜ二点リーダなのだろう?キモすぎる。

*2:私は記事で度々江坂さんを称揚しているが、それは江坂さんが大学生の自由研究の創始者だから媚びているとかではなく、名大界隈に江坂さんみたいな人が江坂さんしかいないから不可避的にそうなっているのである。私も同じくらいかそれ以上”文化人”です、という方は是非何らかの方法で連絡ください。

*3:このことは脚注ではなく本文に書くべきなのかもしれないが、現在では「2グリ」と言うと図書館前から山手通まで続くスペース全体を指すのが普通だが、デルタ像のある図書館正面広場(ちくわ公園)と古代アリーナの間を道路が横断していたころは、前者が「2グリ」、後者が「1グリ」と呼ばれていたようである。これを本文に書かなかったのは、当記事では特にその違いに頓着しないからである。