先日、いつも通り大学をウロウロしていたら、閑静な学問の府ではとても聞かれてはならないような轟音が2グリを覆う白い壁の奥から聞かれたので、何事かと思って見ると、そこでは古代アリーナがブチブチにブチ壊されていた。
#メェだい だよ!東山キャンパスのグリーンベルトの工事、いよいよ重機が入ってきたよ!見えるかな?
— 名古屋大学附属図書館 (@NagoyaUnivLib) 2023年4月26日
あっという間に広場が土になっちゃって、びっくりしたよ~!
#名古屋大学 #名大グリーンベルト pic.twitter.com/88PYvdd1cg
図書館のヤギ*1は呑気に「びっくりしたよ~!」などと抜かしているが、私は容赦無くキャンパスが破壊される光景の惨さに言葉が出なかった。
それと同時に、先月トイドラさんが当ブログで公開していた「名大裏名物図鑑」や、以前見た研究会研究会による2グリの記事が脳裏をよぎった。
今後ことあるごとにこれらの冊子や記事の記憶は、ある種の忠告としてリバイバルしてくるに違いない。お前は変貌していくキャンパスを前に、ただ「びっくりしたよ~!」の一言で済ませて良いのか、と。
それはそうと、そのように大学生活において、キャンパスをただぼんやり漂う塵のように過ごしているだけでは気づかないまま終わってしまうことやものというのは、意外とある。
例えば。名大には、「工学部4号館」がない。3号館と5号館はあるが、4号館はない。
その理由は単純で、4という数字は「死」を連想させ、縁起が悪いからである。
そんな言葉遊び、と侮ってはならない。丸八マークを市章とする名古屋市が誇る最高学府にして、旧制第八高等学校の後継者である名古屋大学が座するところの、医学部を除く8学部が集結する末広がりまくり縁起ジャックポットの不老町に、このような数字があっていい道理などないではないか。現に第4グリーンベルトはないし、名大駅に4番出口はない。理学部は「4」という数字を使わないために、建物をアルファベットで呼び分けている。また、学籍番号が「04」で始まる経済学部は、グリ-ンベルトの工事が終わるのと同時に取り潰されるらしい。由緒ある学部だが、仕方ないことだ。
などというようなことを信じてしまうような方は今頃、駅前の交差点に本棚をおっ立ててニコニコしたり、宗教勧誘したりで忙しいだろうから、今読んでいる方は大丈夫かと思うが、一応断っておくと嘘である(第4グリーンベルトも4番出口もあるし、経済学部は元々存在しない)。
突然だが、目次を示しておく。見て分かる通りずっと名大の話しかしないので、名大アレルギーの方はこのへんでブラウザバックしておかないとうっかり眼球が炸裂してしまう危険性がある。
工学部の”欠番”
4号館の消滅
工学部4号館が存在しないのは、この前工学部7号館(のB棟)が無くなったのと同じ理由によってである。7号館がこの前まであったように、工学部4号館もまたあった。
以下の素朴なキャンパスマップは、2001年に作成された「名大史ブックレット2 名古屋大学 キャンパスの歴史1(学部編)」の巻末に記載されているそれである。名古屋大学には文書資料室なる、名大史を知り尽くした名大史ヤクザみたいな部署(?)が存在するのだが、上記の冊子はこのヤクザのHPで公開されている。
4号館があったのは、現在NICとES総合館が建っている場所である。そう、4号館はES総合館の前身だったのだ。
そして、ES総合館がそこまで年季を感じさせない建物であることからも分かるように、4号館は割と最近まで存在していた。
ES総合館が竣工したのは、施設統括部のサイトによれば2011年である。4号館の消滅とES館の誕生を目撃していた当時の人々の声がTwitterに残っている。
工学部4号館があぁぁぁ http://movapic.com/pic/201004281803544bd7f9fa2fed9
— Yuichirou Ogami (@Yuichirou) 2010年4月28日
そういえば、いつの間にか犀川先生の研究室があったと思われる工学部4号館がなくなってる。#meidai #nagoya
— hasigaya (@tamarin_hashi) 2010年6月19日
@sbe48 ES館は、工学部4号館が最近建て変わったの!建築とかが入ってますよー。4, 5月で引っ越し作業中!
— まいける/まっきー (@my_keru) 2011年4月28日
航空写真では使い古した消しゴムみたいな色をしていた4号館であるが、やはりかなりおじいちゃんビルだったようである。4号館が初めて名大に出現したのは、「大学の歴史 名古屋大学工学部」(教育文化出版、1986年刊)によると1964年だったらしい(p.208)。以降多少の改修は経ていたのだろうが、それでも2010年のキャンパスマスタープラン(以下、CMP)では、耐震性を示すというIs値なる数値がダントツでカスであると名指しされていた。
7号館の消滅
ところで、4号館の死に際および死後の運びは、当然と言えばそうかもしれないが、7号館のそれとよく似ている。実際CMP2016では、今度は7号館が死の指名を食らっている(p.22)。CMPはこのようにデスノートでもある。
ちなみに、7号館が最初に建ったのは1971年である(「名古屋大学五十年史 通史二」p.512)。
4号館は「ES総合館」に生まれ変わっていた。そして7号館も、ご存知の通り、またそんな感じのよく分からない建物に生まれ変わった。
EI創発工学館。EI館の「E」はES館の「E」ではないし、「I」はIB館の「I」ではない(NICの「I」ではある)。
新7号館の名称が公にされたのは結構最近のことであるが、トップランナーは既に2月の時点で情報を掴んでいたようだ。
それ以前は、「地域連携グローバル人材育成拠点施設」とか「グランドナレッジ研究棟(仮称)」みたいな、そもそも本当に新7号館を指しているのかもよく分からない名称が(主に施設統括部のサイトで)見られた。
EI創発工学館
— 某機械系教員 (@HataLab_Nagoya) 2023年2月14日
いわゆる新7号館の正式名称です.EIはEmergence/Innovationの略.このくらいの暴露は怒られない・・・かなw
1号館の消滅と再生
さてこのようにして、工学部X号館は4と7が欠番になってしまったわけである。
しかし、4号館や7号館と違って、工学部には改築を経たにもかかわらず欠番となっていない建物がある。それが1号館である。
1号館は、当たり前であるが工学部n号館シリーズのうち一番最初に建った建物である(1953年1月29日*2)。それだけに留まらず1号館はさらに、戦後間もないころ、戦火に蹂躙され荒涼としていた東山キャンパスに最初に建った鉄筋コンクリート建築でもあった。戦後名大、新制名大が踏み出した第一歩こそ、この1号館なのである。
既に紹介した「大学の歴史 名古屋大学工学部」には、当時の学部長の回想の記述が載っている。
見事に東山に完成した名大の総合校舎に、第一に姿を見せたのは、工学部の一号館である。
(中略)
昭和二十六年に、国は、戦災の激しい大学に重点的に再建予算を認めることとなった。そこで、名大工学部の再建の希望に裏付けができることとなった。そして、その受け入れ準備の一つは、すでにできていた。というのは、戦時中、鋼材使用禁止令のため、一号館の基礎工事が打ち切りのまま曝されていたからで、こうして、先ず一号館が日の目を見ることとなった。(『名古屋大学工学部二十五年の歩み』)
本年2023年は、新制名古屋大学 Holy Nagoyan Empire 発展の記念すべき第一歩たる工学部1号館の竣工70周年にあたる年なわけだが、大方予想される通り、この旧1号館は既に存在しない。
我々が工学部1号館と呼んでいる新1号館は、1995年に新営されたものである。新1号館が「1号」という名誉ある呼称を継承できたのは、ES館やEI館とは違って、旧1号館の機能を全面的に継承していたからであると思われる。
そしてそれが可能だったのは、新1号館が旧1号館とは別の場所に再生したからである。この記事を読んでいる方がどれぐらい名大通なのか分からないのでどんな調子で書いたらいいのか分からないが、実は旧1号館は元々、現在のIB館がある場所に、2号館や3号館と並んで聳え立っていたのだ。ちなみに、IB館は2003年に竣工した。
勿論そのことも、「ちょっと名大史」はしっかりコラムにしている。
元々「名大トピックス」の巻末コラムでしかなかったのに、その「名大トピックス」が廃刊になってもまだメルマガで存続しているという不滅の「ちょっと名大史」は現在239号を数える。ここまで来ると、もう全然「ちょっと」ではない。そろそろ、コールドチキン*3や参戦看板レベルのものを特集しないと続かないのではないかと勝手に心配している。
それはともかく、要するに、以上で見てきた1号館、4号館、7号館はともに、改築と同時に”番号”を喪失したのである。結構長くなってしまったが、とりあえずこのことが確認したかった。
ここまで私はただつらつらと名大蘊蓄を垂れ流すだけだったので、これは一体何が言いたい記事なのかと少々困惑させてしまっているかもしれない。この記事で私は、最終的にこれからの東山キャンパスの話をしようと考えているのだが、そのプロローグとして、工学部の欠番についての確認が必要だったのだ。そして今言ったように、これ以降この記事はハーバード平熱教室と化すので、適宜頬杖を用意してもらうといい。
だが、これからの東山キャンパスの話をする前に、もう少しこれまでの東山キャンパスの話をする必要がある。言うまでもなく、素性の知れない野良名大フリークブロガーによる不正確で不愉快な文章を読むより、「名古屋大学の歴史(上・下)」とかをゴリゴリ読んでもらったほうが良いのであるが。
東山キャンパスの変遷
いきなりだが、名古屋大学工学部はまさに名古屋大学の背骨である。工学部1号館のこともそうだが、そもそも戦前、用地取得後間もない東山キャンパスに最初に入植してきたのが、理工学部が分裂してできた工学部だったのだ。理学部は工事が遅れたとかで工学部に2ヶ月遅れて東山にやってきたらしいので、工学部が単独一番乗りだった。
また、この分裂前の理工学部は、現行の名古屋大学の直接の母体である名古屋帝国大学創設と同時に設置された学部であり、工学部および理学部は歴史的に見て最も名古屋大学を代表するに相応しい学部であると言える。
~1960年代
そろそろしつこいかもしれないが、工学部1号館が建った年が、言ってみれば当記事的”戦後名大元年”である。それ以降、市内県内に散らばっていた諸学部は工学部に引き続いて続々と東山キャンパスに集結し、1966年の農学部移転をもって現在の顔ぶれが大体揃うことになる。
50,60年代を一言で表わすなら、それぞれシンプルに「東山キャンパス前夜」「東山キャンパスの始まり」となろう。60年代が「始まり」である所以は、1960年の豊田講堂落成および第一回名大祭開催に多くを負っている。両イベントは、これまでバラバラの校地に一体感なく存在していた諸学部の、キャンパスの共有というようなマテリアルな繋がりから一歩進んだメンタルな連携・連帯の発生を象徴する出来事である。
また、キャンパスの中央を東西に走っていただだっ広い殺風景な「メインストリート」が「グリーンベルト」へと整備されはじめたのも60年代中頃だ。
ちなみにもう一つ、1962年には旧制名古屋大学が廃止されている。というのも、新制名大発足後も一部研究科は旧制のまま存続していたようなのだが、法令の改正に伴って62年に遂に廃止されたようである*4。
1970~80年代
恐るべきことに、東山キャンパスの施設は1970年の時点で上図ほどの充実を見せている。なので、70年代にキャンパスに新たに建った建物は専ら、理系地区などに集中していたようである。また、1977年には北部厚生会館が誕生した。
一方で上図は、図書館に所蔵されている1982年の学生便覧に載っていた地図である。さあ、間違い探しだ。
先ほどのキャンパスマップと見比べてみると、なによりグリーンベルトが爆ブーストされていることが直ちに分かる。グリーンベルトは1980年の春に爆整備され、その翌年さらに中央図書館が爆誕した。
それと、気が付いた人はおそらくアハ体験に精通しているか茂木健一郎かのどちらかだと思うが、79年に鏡が池の第二次埋め立てが実施されたのでその面積を減じている。
このように、重大なイベントはいくつかあるが、それでもキャンパスの変化について言えば比較的穏やかだった時期だと言えるだろう。一方で学生生活や組織運営、治安維持の方は穏やかならざる時期であったかもしれないが、それらはこの記事の関心からは逸れるのでスルーする。
1990年代
この頃から徐々に風向きが変わってくる。新築のビルが、既存の建物に建て替えを迫るかのように、それらの外周に建ちだした。90年代になると、CMPでやたら使われている「キャンパスの建て詰まり(CMPでしか聞いたことがない表現)」、および施設の老朽化がもはや見過ごせるレベルではなくなりつつあったのだ。
1997年には初めてCMPが作成された。このときはまだ、最近のものと違って全く色気がなかった。
その初代CMPの当時の総長による巻頭言では、「キャンパス再開発元年」などという当記事並みに大げさな表現を用いつつ、時代の転換点に立っているという総長の自覚が遺憾なく叙述されている。
また以前別の記事で触れたことだが、大体このあたりの時期で東山キャンパス内の自動車台数が減り、代わりに自転車台数が増えていくという転換が起こっている。これは小さからぬ変化である。
一方で組織面では、それまで教養教育を担ってきた旧制第八高等学校の正嫡・教養部が廃止され、丸八大学にとって禁断の9番目の学部・情報文化学部が生誕する。両性具有の赤子の誕生が古来しばしば集落にとっての凶兆と理解されるように、この両性具有の(文理融合の)正統なる異端児の誕生は、あたかも新世紀の大変革を予告するかのようであった。
ちなみに情報文化学部の設置年は、当時の加藤総長が「キャンパス再開発元年」と宣言していたそのまさに1993年である。旧教養部が東山キャンパスの日暮れに輝く宵の明星だったとするなら、情報文化学部はまさしく暁の空に燃える明けの明星であり、新たな”暦”を起動した東山キャンパスのイエス・キリストなのだ*5。
2000年代前半
まずキャンパス云々以前に、名大にとってこれ以上ない吉報が舞い込んでくる。理学部の野依教授がノーベル賞をもぎり取って来たのである。ここから名大関係者による受賞ラッシュが始まり、それにつれてキャンパスがどんどこツヤツヤになっていくのは、既に我々の知るところである。
加えて、国立大学の法人化もこの時期のことである。法人化が直ちにキャンパスやキャンパスの運営方針に甚大な影響を及ぼしたなどということはおそらくないが、大学の存在カテゴリー(?)が変化するのは実に戦後以来のことであったことを思えば、れっきとした事件である。
この時期に大学構内であった主な工事を概観してみると次のようになる。全学棟の大改修、文系地区の改修ラッシュと文系総合館竣工、工学部2,3号館の改修とIB館竣工。つまり、グリーンベルト周りの名大的な景観を演出していた諸施設が軒並み改修・改築されたのである。以下はCMP2005に載る図である。
ついでなので、当時のネット掲示板のコメントも載せてみる。これは昨年秋、膨大にあるスレッドを眺めながら気になったコメントを大量にスクショしておいたうちの1つだが、今改めて元のページを探そうとしたところ、どうしてか見ることができなかった。ひょっとするともう、彼らの声は永久に失われてしまったのかもしれない。
過去スレ一覧 - 名大@Wiki - atwiki(アットウィキ)
それはさておき、変化していたのはキャンパス内だけではない。90年代から着々と進んでいた四谷通での地下鉄工事、鏡池通の高速工事がついに完了する。以前の記事で私は、本山原人が本山駅から”登山”し名大まで通っていた時代を「旧石器時代」と呼んでみたが、やはり地下鉄の開通はあらゆる意味で名大の歴史を「新旧」に分かつ革命的なイベントだったと思う*6。
2000~2010年代
グリーンベルト周りの工事がある程度済んでいくと、工事の嵐は東進を始める。
2000年代以降の時期のことは「名古屋大学の歴史(下)」に非常に端的にまとめられているし、またわざわざ書くまでもないことばかりなので、簡単に見ていくだけにする。
2000年代後半~2010年代にかけて、理系地区、それも理学部エリアから”最果て”(もといリサーチパーク)に至るまで、グリーンベルト周りが徹底的に工事されたのと同じように、こちらもかなり徹底的に工事が行われた。特に旧4号館エリア(「ノーベル賞通り」)はもはや潔癖と言えるレベルである。
また、豊田講堂の改修、中央図書館の改修、および南部食堂の改築もこのころ実施された。こうして名大でピカピカでないエリアは、ざっと旧7号館エリアを残すのみとなったのである。
2020年代以降
我々の知るように、工事の嵐は理系地区を蹂躙したあと、旧7号館エリアを経由してグリーンベルトに戻ってくる(きた)。
では、構内の諸エリアが一通り工事を経た来年以降はどうなるのか。CMP2022を見てみると、どうも2000年代に改修で済ましていたエリアに死の気配が立ちこめている。また、鏡が池の整備も仄めかされていたりする。
「東山キャンパス2.0」
さて、以上のように東山キャンパスの歴史を概観してみたわけだが、やはり明らかに、東山キャンパスは21世紀に入って”2周目”に入っていると言える。こう言い換えてよければ、今我々が過ごしているこの東山キャンパスは「東山キャンパス2.0」とも言うべき、前世紀とは異なる空間へと変貌を遂げようとしているのだ。
この「東山キャンパス2.0」という考えについて、もう少し分析を深めていきたい。今しがた「東山キャンパス2.0」なる珍妙な言葉を使ったが、ではそれに対応する「東山キャンパス1.0」にあたるものは何であるか?
それは無論、工学部1号館の竣工によって起動され、豊田講堂落成および名大祭の創始、諸学部の東山移転完了にその基礎の完成を見た東山キャンパスのことである。
では翻ってこう問おう。ならば「東山キャンパス2.0」を起動し、これを完成せしめるものは何であろうか?
私はこう答えたい。前者がIB電子情報館の竣工であり、後者が東海国立大学機構プラットフォームの完成である、と。
「2.0」におけるIB館
つまりこうだ。IB館こそは、「2.0」のパイオニアであるという意味において、21世紀の工学部1号館なのである。
現・工学部1号館が特例的に旧1号館のナンバーを継いだのは、その内実が結局「1.0」を超え出るものではなかったからである。反対に、ES館やEI館がそのような名前を与えられて再生したのは、これらが「2.0」の有資格者であるからなのだ。
ところで、旧1号館が「1.0」のパイオニアであるというのは、それが東山キャンパスへの結集の先駆けであったという点においてであった。
では一方のIB館がどのような点において「2.0」の先駆者であるかを考えると、それはまず駅との融合の先駆けということになろう。このことは意外と重要である。
地下鉄駅の出現は既に述べたように、キャンパスの20世紀と21世紀を、「2.0」と「1.0」を分かつ1つの大きなポイントである。そのようである地下鉄駅とキャンパスの融合とは、とりもなおさずキャンパスの「2.0」への適応・移行を意味するだろう。そして現に、「2.0」の一応の完成は、キャンパスの根幹を成すグリーンベルトと地下鉄駅の融合によって達成されるのである。それは「1.0」において、豊田講堂が全学結集の象徴として1グリに君臨することで「1.0」が一応の完成を見たのと対応している。
加えて、CMP2022では来たるべきキャンパスを形容する言葉として「ウォーカブル」という言葉が頻用されているが、80~90年代にキャンパス内/外の移動手段として自動車から自転車への移行があったように、「2.0」への移行は移動手段における自転車から徒歩・公共交通機関への移行を多かれ少なかれ伴うもののようである。この移行が可能であるのは、ひとえに地下鉄駅が東山キャンパスの中央に埋まっているおかげなのであり、この故に地下鉄駅の存在を軽視してはならないのである。
「1.0」と第2グリーンベルト
今述べたように、「2.0」は東海機構プラットフォームの完成によって成し遂げられる。ただこのことは、裏を返せば「1.0」は第2グリーンベルトの破壊によって終焉を迎えるということでもある。つまり、第2グリーンベルトは「1.0」の最後の砦なのだ。
と、以上のことを念頭に置いた上で後編に入るわけだが、一度にあれこれ書きすぎている感があるので一旦まとめておく。
「1.0」
起動:工学部1号館の竣工(東山集結の先駆け)
完成:豊田講堂の竣工(東山集結の象徴)
終焉:2グリの破壊(「2.0」の完成)
「2.0」
起動:IB館の竣工(地下鉄駅と大学施設の融合の先駆け)
完成:東海機構プラットフォームの完成(地下鉄駅とキャンパスの融合)
終焉:??
もしここまで読んでしまったのなら、折角なのでもう少しこの”新説・名古屋大学”に付き合ってもらいたい。ここにきてようやく、”新説・名古屋大学”の真打ちに打順が回ってくるからだ。後編はほぼその話しかしない。というか、私はその話をするためにここまで長々々々々々と書いてきたのだ。
*1:明日5月1日は誕生日らしい。おめでとう。ホームカミングマより好きです。
*2:この日付は「大学の歴史 名古屋大学工学部」に記載されていたものだが、名大史ブックレットには3月の竣工とあり微妙に誤差があるので注意。
*3:https://twitter.com/Cold_chicken1
*4:関係ないと言えばないのだが、似たような現象として、実は昨年2022年の名大には情報文化学部の学生がまだ2名在籍しており、そのために情報文化学部もまだ存続していたりする。情報文化学部は2017年4月に情報学部へ改組されているので、もし2023年も大学に残留していたら彼らは最低でも名大9年目ということになる。情報文化学部の”物語”も、じきに終わりを見ることになりそうだ。
https://www.nagoya-u.ac.jp/about-nu/upload_images/NU_profile2022_gakuseisuu.pdf
*5:確かに17年の改組で一度死に、情報学部として蘇っている。
*6:誰が言い出したのか分からないが、四谷通は1990年代あたりまで「名古屋の原宿」と呼ばれていたそうである。四谷通は地下鉄工事を経てかなり景観が変わってしまったようだが、名城線が山手線のように環状化したときには既に”原宿”ではなくなっているとは、なんとも皮肉な事実だ。