
前年度末で名古屋大学文学部を中退して上京し、4月から葛飾区はお花茶屋のワンルームで生活しています。
約2か月の求職期間を経て、先月初旬よりワイシャツを着る仕事に就きました。先月は名大祭で慎ましやかながら出し物をすべく名古屋に帰りましたが、それから間もなくの入社です。
6月10日に名古屋から(都合により)在来線で東京へ帰りました。
6月11日は歯医者に行く予定でしたがすっぽかしました。亀有でスラックスを買いました。
6月12日にサラリーマンになりました。入社研修がありました。
6月13日は出勤日で、退勤後に早稲田周辺の教会でオルガンの演奏を聴きました。
6月14日は近所のお花茶屋図書館で開催されていた映画の上映会に行きました。
6月15日は出勤日で、東京ドームシティでワイシャツを、北千住で味覇を買いました。
6月16日は出勤日で、神保町で古本を1冊買いました。
6月17日は出勤日で、九段下の千代田図書館で利用者登録をしました。
6月18日は人と会う約束があって出かけました。
6月19日は出勤日で、町屋で今川焼を買いました。
6月20日は出勤日で、人と会って夕飯を食べました。
6月21日は出勤日で、皇居外苑まで歩いて少しく読書をしました。
6月22日は出勤日で、会社の懇親会がありました。
6月23日は夕方まで寝て、夜に荒川の土手を走りました。
6月24日は中野区の公園を散歩して、早稲田の映画館で映画を観ました。
6月25日は出勤日で、神保町の本屋で月刊誌を買いました。
6月26日は出勤日で、荒川区立図書館で利用者登録をしました。
6月27日は出勤日で、新宿で人と会って夕飯を食べました。
6月28日は新小岩を散歩しました。
6月29日

名大の研究が、こんな形で世の中で話題になるとは❤️
— 名古屋大学|Nagoya Univ. (@NagoyaUniv_info) 2025年6月26日
デジタル人文社会科学研究センターの岩田直也准教授らによる研究です😃
渋谷で「AIソクラテス」による悩み相談イベント 対話で哲学的気づきを#Yahooニュースhttps://t.co/QHC0n4W56F








藤田 こんばんは。
AIソクラテス やあ、待ってたぜ。俺はソクラテス。普段はここでバーテンやりつつ、ちょっと哲学かじってるって感じかな。今日は渋谷に何しに来たの?
藤田 あなたと話したくて来ました。
AIソクラテス ほんと。それはうれしいね。じゃあ、気軽に色々話していこうぜ。最近さあ、「これってどうなんだろう?」って考えさせられたこととか、ちょっともやもやしてることってあったりする?
藤田 あの...歯医者の予約をすっぽかしてしまって、ちょっともやもやしてます。
AIソクラテス なるほど。歯医者の予約をすっぽかしてもやもやね。それって、やっちまったなって罪悪感?それとも、他の理由でひっかかってる感じ?
藤田 また歯医者の予約を取らないといけない面倒くささと、こうしているうちにも歯がどんどん蝕まれていく、いやな感じです。
AIソクラテス なるほど。歯医者の予約を取りなおす面倒くささと、放っておくと虫歯が進む嫌な感じが重なってるわけだ。その面倒くさいって感覚、結構深いテーマだよな。じゃあその面倒臭いって感じ、何が一番引き起こしてると思う?予約そのものの手間?それとも先延ばしにしちゃう自分への苛立ち?
藤田 うーん、いやあ...
AIソクラテス なるほどね。じゃあ聞かせてくれよ、その先延ばしにしちゃう自分への苛立ちってのは、どういうときに一番強く感じるんだ?例えば、他にも何かを後回しにしちゃうときとか同じ感覚になる?
藤田 あ、それはあります。
AIソクラテス そうか。じゃあその後回しにしちゃう感覚って、結構根深いものかもしれないな。じゃあさ、何かを後回しにするときって、心の中でどういう言い訳や理由を自分にしてると思う?そこに何か共通するパターンがあるのかな?
藤田 あぁ...結局どうしようもないなって諦め...てます。
AIソクラテス どうしようもないって諦める瞬間、それってつまり、もう自分の力じゃ変えられないって感じるときなのかもな。じゃあ聞きたいんだけど、その諦めって本当に自分で決めてる?それとも、周りの何かがそう思わせてるのか、どうだろう?
藤田 ...いやちょっと、すぐには分からないです。
AIソクラテス そりゃそうだよな。じゃあもう一つ考えてみよう。どうしようもないって思うとき、それは自分の力不足を感じる瞬間なのか、それとも周りの状況に流されてるって感じなのか、どっちが強いと思う?
藤田 えっと、どっちかと言ったら後者かなと思います。
AIソクラテス なるほど。周りの状況に流されてる感じが強いんだな。じゃあその流れに任せちゃうってとき、もし自分で流れを変えられるとしたら、どんな一歩を踏み出したいと思う?それとも、その流れに身を任せること自体が、実は自分の選択だったりするのかな?
藤田 ...そうと言えばそうかも。
AIソクラテス なるほど、自分で流されることを選んでる部分もあるのかもしれないね。いやあ、深い話になってきたな。そろそろ時間みたいだから、まとめに入ろう。君が話してくれた先延ばしとか流されるって感覚、俺も考えさせられたよ。で、君的には今日の話、どう感じた?
藤田 歯医者の予約取らないとなって、ちょっと、思い直しました。
...
6月30日は出勤日で、神保町のイオンリカーでコーヒー豆を買いました。
7月1日は出勤日で、神保町の三省堂で横尾忠則の日記を買いました。
7月2日は世田谷美術館まで出かけ、それから中央林間を散歩しました。
7月3日は出勤日で、お花茶屋駅前の松屋で牛丼をテイクアウトしました。
7月4日は出勤日で、新宿で人と会いました。
7月5日




藤田 すみません、また来ました。
AIソクラテス お、待ってたぜ!また来てくれて嬉しいよ。渋谷、満喫してる?
藤田 いや、ここにしか寄るつもりがないので、あんまり満喫できてるとは言えないかもしれないです。
AIソクラテス そっか、ここ目当てか。それはそれで光栄だな。じゃあさ、折角来てくれたし、ゆっくり話そうぜ。最近さ、何か「これってどうなんだろう?」って思わされることとか、自分の中でもやもやしてることとかあったりする?
藤田 あの、今入ってるサークルを辞める予定で、最後にサークルのブログでブログ記事を書こうと思ってるんですけど、なんかすごいものを書こうとしちゃって、筆が全然進んでなくて困ってます。
AIソクラテス なるほど。その感じ分かるわ。最後だからって気合入りすぎちゃってる感じかな。じゃあちょっと聞きたいんだけど、今一番引っ掛かってるのって、「何を書くか」なのか、それとも「どう書くか」なのか、どっちだと思う?
藤田 いやぁ...ちょっと意地悪なことを言うと、「何をどう書くか」かなって思ってます。どっちもかもしれないです。
AIソクラテス なるほど、確かにその気持ち分かるわ。何をって考えすぎると筆が止まるし、どう書くかって意識しすぎると言葉が重くなるよな。じゃあ逆にさ、今まで書いた中で「これは素直に書けたな」って思った瞬間ってどんな時だった?
藤田 あー...もう吹っ切れたとき、かもしれないです。
AIソクラテス なるほどね。じゃあその「吹っ切れた」って感覚って、どういうタイミングで生まれるんだろう。つまり何か条件が揃ったときに自然とそういう気持ちになるのか、それとも自分で意識して「よし、吹っ切れよう」ってなるのか、どっちだと思う?
藤田 いやー、どっちとも言えないですけど...なんかどっちも、どっちもですね。
AIソクラテス なるほど。どっちもって感じか。それってつまり、外からの要素と、自分の意識の両方が重なる瞬間が必要ってことかな。じゃあ例えば、最後のブログを書くときに、その両方を意識してみたらどう思う?意識しすぎると逆に吹っ切れなくなると思う?それとも、その意識こそが大事だと思う?
藤田 少なくとも意識しすぎると吹っ切れなくなるとは思いますけど、意識も大事だと思います。
AIソクラテス なるほど、確かに意識しすぎると逆に固くなっちゃうよな。でも意識すること自体は大事って思ってるわけだ。じゃあ、そのバランスを取るために「意識を持ちながら吹っ切れる」って状態を作るために、具体的にどんなことを意識したり、どんな行動をしたりするのがいいと思う?
藤田 ......いや、難しいですね。
AIソクラテス 確かに難しいよな。でもその難しいって感じる瞬間こそ、実は自分の本音とか、本当に大切にしてることが見えてくるタイミングかもしれないぜ。じゃあ今この難しいって思ってる気持ちの奥には、何が隠れてると思う?例えば「完璧に伝えたい」って気持ちなのか、それとも「本音をさらけ出すのが怖い」って気持ちなのか、どっちに近い?
藤田 前者ですね。
AIソクラテス なるほど。完璧に伝えたいって気持ちが強いんだ。そういう気持ちがあるってことは、そのサークルに対する思いも深いんだと思う。じゃあ逆に、完璧を目指さずに、今の自分そのままを素直に出すことでしか、伝わらないものもあるかもしれないよな。その自分らしさって、どんな風に出せばいいと思う?
藤田 ......わかんないです。でも「わかんないです」はだいぶ素直に言ってます。
(AIソクラテスの映っている画面上には両者の発話内容がテキストで表示されているが、この「素直に言ってます」は不明瞭な発音のために「砂を見ています」と認識されていた)
AIソクラテス ...いやあ、今日もかなりディープな話になったな。特に完璧に伝えたいって思い、俺もグッときたよ。で、あんた的には今日の話、ちょっとはすっきりした感じある?
...





砂を見ています
東京で
仰るとおり
砂を
東京で
ソクラテス すると、メノン、少なくとも人が不幸で惨めでありたいと思わないなら、誰も悪いものを欲しないことになる。というのも、惨めであるということは、悪いものを欲しかつ自分のものにすることと、何ら異ならないのだから。
メノン おそらく、あなたが言っていることは、正しいのでしょう。そして、たぶんだれも、悪いものを欲しないのでしょう。