大学生の自由帳

ペンギンパニックとエノキ工場の香り

カメを捌いた僕はサイコパスなのか

先日、「ミドリガメのカメ吉を食った」という記事を上げましたが、その日だけブログの来訪者数がめっちゃ跳ね上がってました(20倍増)。

どうやら思ったよりは多くの人に読んでいただけたようです。

面白い」「行動力がすごい」「飼い切れず捨てる人より良い」といった好評から「悪趣味」「いずれ犯罪者になりそう」「サイコパスなんじゃないか」といった悪評まで、様々な言葉をいただいています。

天国のカメ吉もさぞかし浮かばれることと思います。

 

ところで、最後に書いたサイコパスなんじゃないか」という言葉は実は父親から言われた言葉です。

割と本気で心配していたようで、

「お前、変な方向に進んどらんだろうな……」

と再三確認されました。

心配かけて申し訳ない。

どうやら世間的には、生き物を殺して捌くという行為には

猟奇的マッド病的

といったイメージが付き纏うらしいです。

確かに、小説などの創作でもそのような描写はよくありますし、実際の猟奇殺人犯が幼少期には猫をバラバラにして遊んでいた、ということもありますね。

しかしながら、「サイコパスは動物を捌く」というのと「動物を捌くのはサイコパス」というのとは、論理学的に見て別の命題です。

「リンゴは果物」ですが、「果物はリンゴ」じゃないですよね?

というわけで、「動物を殺して捌く」という行為が本当に快楽殺人じみた危険な行為なのか、早速検証してみましょう。

 

カメを食おうと思った理由

まず、僕がわざわざミドリガメを捕食するという面倒かつ辛いことをなぜやろうと思ったのか、そのきっかけについてお話ししていきたいと思います。

 

以前、「こんな時間に地球征服するなんて」という深夜番組を偶然観た事があります。

その回は、森の奥地に住む未開の部族の村に住まわせてもらう、という企画で、内容が本格的で面白かったので、しばらく見入ってしまいました。

その村の人々は、日常的に小動物や鳥類、サルなどの獣を狩って暮らしていたのですが、ある子供がインコを捕まえて

「こいつは食べないでペットにする!」

と言ってニコニコしながら遊んでいました。

ところが、次のシーンではその子供がインコの羽をブッチブチ毟り、たちまち焼き鳥にして食べてしまったのです。

ディレクターが「なぜ食べちゃったの?」と聞くと、子供は

「お腹が空いたから」

と屈託のない笑顔で答えました。

それを見て、僕は内心ぎょっとしましたが、同時に

「ああ、生き物を殺して食うって、本来はすごく日常に沿った行為なんだな」

と感じました。

 

現代の日本では、屠畜とか屠殺といった真実はかなり目に見えないように隠されています。

目の前に半身の牛を吊るされて「さあ、捌いてください」と言われれば、多くの人がパニックに陥ると思いますが、一方でハエも殺せないような人でも「わたし牛タンより豚レバーの方が好き〜」とか普通に言いますし、スーパーに並ぶ切り身の肉に対して「グロテスクで見ていられない!」などと苦情を入れる人は聞いたことがありません。

しかし、考えてみれば当然ながら、スーパーの切り身肉も昨日の昼飯のトンカツも、紛れもなくこの前まで生きていた生き物の死体なのであって、そこには間違いなく「殺して捌く」というプロセスが含まれています。

テレビに映る村の子供は、さっきまで一緒に遊んでいたペットのインコを焼き鳥にして食うまでに何の躊躇いも見せませんでした。

もしかしたら、これを見てぎょっとする方が、先進国の文明に飼い慣らされ洗脳されているのではないか?

 

そうは言っても、僕だってそういう環境に甘んじて今まで生きてきたし、切り身の肉を見れば美味しそうだなあと思うし、でも自分の手で生き物を殺すなんて絶対ムリだなあと思っていました。

この感覚──食べるのは無感情だけど、殺すのは生理的にイヤ──には、明らかに矛盾が含まれています。

だって、肉を食べるためには本来その生き物を殺す必要がありますからね。

この矛盾に気づいてしまった僕は、いつか自分の手で動物を捌いて食べる体験をしないとなあ、と思ったのです。

 

とはいえ、自分の手で生き物を殺して食べるなど想像がつかず、ダラダラと時間だけが経っていきました。

そんな折、「ミシシッピアカミミガメは美味い」という衝撃的な知識をネットサーフィン中に得てしまいます。

家の近くにもたくさんおり、外来種ゆえに駆除が推奨されているという事実。

鳥よりは獣感が薄いものの、魚よりは獣っぽいという絶妙な位置づけ。

ミシシッピアカミミガメは、僕にとって非常に都合のいい野生食材でした。

そしてついに、僕はカメ吉との運命的出会いを果たすことになります……(過去記事参照)。

 

サイコパスではなかった

さて、ここまで読んでいただければ分かったかと思います。

残念ながら僕はサイコパスではありません

僕がカメ吉を手にかけたのは、ひとえに肉を取って食うためであって、カメ吉が死んだこと自体に快楽など微塵も感じませんでしたし、むしろ生き物をこの手で殺すのは非常に辛かったです。

 

しかし、僕が克服したかった矛盾はまさにこの点なのです。

つまり、「生き物を殺すのが辛い」と感じてしまうということは、まさに僕が「自然」な感覚を失った人工的な感覚の持ち主だということに他なりません。

普段から僕たちはものを食べて生きている訳ですが、食の中には2つの「命」が含まれているということを、僕らは意識していたでしょうか。

それはつまり、「食べられる側の死」「食べる側の生」です。

現代の僕たちは、「食」というものの真実からかなり目を背ける努力をしています。

それによって、心臓がドキッとするような「食べられる側の死」からは上手く目を逸らせたかも知れません。

しかし、それは同時にそこにある「食べる側の生」、つまり生きている「命」そのものからも目を逸らしていることになりはしませんか?

それによって、「死によって生を紡ぐ」という当然の営みがどこか異様なものに思われ、なんとなく知識としては知っていながらも、紡がれてきた「命」の実感が湧かない、というような人工的で非現実的な感覚を僕たちが得ているとしたら?

 

僕はむしろ、そのような不自然な感覚が強化されていくことで、遊びで生き物を殺すような猟奇的な人が生まれるのだと思います。

「死」からあまりにも遠ざかり過ぎると、まるでそれが非現実的で刺激的なオモチャのように感じる人が出てくるのかも知れません。

食べるために生き物を殺すという経験を通して、僕の中に「命」という観念が今までよりも多少ハッキリした形を持って留まっています。

ちょうど、女性経験のない男性が自分の妄想を語ってデヘデヘしていたのに、いざ恋人を持つと変な幻想を語らなくなってサッパリしてしまうのに似ていますね。

程よい距離感で現実を見ることで、一歩引いた視点からそれを眺められるようになるのです。

 

「生き物を捌く」ということに対して、「気持ち悪い」とか「イヤだ」と思ってしまうのは仕方ありませんし、今の世の中だと普通のことだと思います。

というか僕も未だにそう思います。

ただ、カメ吉との体験を通して、僕の中で少しだけ「食」、つまり「2つの命」について形のある感触を得ることができました。

自分も是非、きっちり生きて死にたいですね。